瀧山物語

埋もれた歴史を発掘することは未来に起こるかもしれない危険を回避する事にならないだろうか?

瀧山物語(北条時頼は瀧山に来ていない?)

鎌倉時代北条時頼が忍び旅で瀧山を訪れ、乱れた僧侶を見て閉山にした」

言い伝えは本当なのか?

 

北条時頼は(1227年~1263年) 36歳の生涯

     「吾妻鏡」(政府公認の歴史書)から

  1243年16歳の頃  左近将監

  1244年       従五位上に昇叙

  1246年3月23日  幕府の執権となる。

       5月     反北条氏(名越光時)鎮圧

       7月     宮騒動藤原頼経を京都に強制送還)

  1247年       相模守に転任

              宝治合戦三浦泰村一族を滅ぼす)

  1249年       評定衆の下に引付衆を設置(訴訟や政治の迅速化

  1251年       正五位下に昇叙

  1252年       宗尊親王を擁立(親王将軍の始まり)

  1254年10月    女子誕生        

  1256年3月     連署(補佐役)北条重時天然痘に罹り出家

       9月     時頼 天然痘に罹るが回復 

      10月     時頼の娘も天然痘に罹り他界(享年3歳)

      11月     時頼 赤痢に罹る 病気を理由に執権辞職し出家  

  1257年2月     時宗元服

  1257年夏      干ばつ 

  1258年       長雨・低温・暴風雨

  1259年       正壽・正元の飢饉  

              時宗の弟、宗政の元服

  1261年       子息の序列をつくる(正妻の子・その他)

  1263年11月8日  病気悪化(これ以前からの重病を推測『吾鏡』)

       11月19日 危篤

       11月22日 死去  享年37歳

                          (参考:Wikipedia

 

      上記のように北条時頼の足跡を考察してみると、東北地方に尋ねてきた

「東国廻国」との説は成立が難しいと思われる。

まして出家の口実は病気であり、当時の飢饉における貧民救済や相続の整備に当たっていたと考えるのが妥当と思われる。尚『吾妻鏡』には廻国は記載されていないとの説がある。

 

瀧山・松島延福寺・室根山天台宗寺院を襲撃し消滅させたのは

 

誰が?

理由と目的は?

いつの事なのか?