人間の歴史は紀元前から疫病との戦いだった。
奈良時代・平安時代も、天然痘やらい病を患う人々が多かったと思われる。
さらに、日照りや長雨などの天候不順で不作が続き、道端で行き倒れて亡くなることも多かったと思われる。
<奈良時代>
705年 この年、大風、日照りのための飢饉と疫病の流行が二十か国に及ぶ。
その後も飢饉と疫病は河内、摂津、出雲、安芸、讃岐、伊予にも広がり
盗賊が横行し人民、真辛苦する。『続日本紀』
737年 この年、天然痘が流行する。
天然痘に罹り相次いで死亡。
そのような社会の中で、身体を清潔にする余裕などは皆無ではなかっただろうか?
貴族達も入浴を常習する習慣は見られていない。
天然痘やらい病は次々と伝染し、栄養不足の貧民から疫病の餌食となって行ったのではないだろうか?
貧民救済に頑張った僧達が感染してしまうのは残念なことではあるが、ある意味当然の事なのかもしてない。
空海がらい病に感染してしまっていたとしても、彼の民を救済したいという行動から起きてしまった事でななかったろうか?
嵯峨天皇からの信頼を得て、順調で多忙な日々の時にらい病が発病してしまう。
らい病の潜伏期間は数年以上になる時もある事からいつ感染したかはきっと不明ではなかっただろうか。
記録にあるのは、病気悪化のために職を辞して高野山にいったとある。その後に
四国八十八霊場を巡り、病気平癒を祈願したとのことだが。
残念ながら病に勝つことは出来ずに亡くなってしまう。
その亡骸は、身辺の世話をした少数の僧により火葬された。
火葬にしたとの事は疫病(伝染病)であったことの証明になるのではないだろうか?
追跡したのは・・・
世話をした少数の身内同然の僧達だろうか?
患部の治療や包帯を交換したりした僧にらい病は感染しなかったのか?
その僧達はらい病の治療を経験してきており精通していたのではないだろうか?
そして、
その僧達は自分に感染しているかもしれないらい病の治療のために蔵王の温泉(高湯)に赴いて温泉治療はしなかっただろうか?
蔵王山は「不忘山(わすれじのやま)」と百人一首にも歌われており、さらに
「最上川つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」『山家集』
このように、歌に出てくる事を考えると
それは、
古来より蔵王山は、硫黄の温泉で、皮膚病・リウマチ・その他多くの病気に良く効くとされているため、
天然痘やらい病等の皮膚疾患や、戦いで負傷した人々、田畑仕事の腰痛などの湯治で賑わっていたのではないだろうか?
なぜ、都より遥か遠い出羽の地なのかと言えば、最上川という舟を利用した参拝ルートが安易だったこともあるが、都より近い草津温泉や箱根温泉が安全に利用出来なかったからということも想定できる。
なぜなら、富士山の噴火が頻発していたからだ。
<富士山の噴火>
482年頃 旧暦3月~4月かけて噴火『走湯山縁起』
781年 噴火 奈良時代
802年1月及び5月 噴火平安時代
1015年頃 噴火平安時代
1033年頃 噴火平安時代
1083年頃 噴火平安時代
1435年頃 噴火室町時代
1511年 噴火室町時代
1704年 鳴動 元禄時代
1707年 宝永大噴火 江戸市中まで大量の火山灰降下
そのほかの硫黄温泉は九州の方になってしまう事から、
蔵王温泉(高湯)は都に住む人達にも、貴重な温泉治療の場ではなかったかと想像できないだろうか。
草津温泉縁起を引用させて頂くと・・・・
源頼朝のもとに薬師如来の権化である童子が現れ、ほかの様々な病と共にらい病 を挙げ、この湯によって病苦から救われると告げたという。(草津温泉から引用)
古来、草津温泉は「万病に吉」と謳われ(うたわれ)、多くの湯治客を迎え入れてきた。温泉の保温効果に加えて、草津温泉の強酸性泉による殺菌作用、成分に含まれる硫酸アルミニウムによる収斂作用、皮膚の刺激作用により切り傷から、ハンセン病、梅毒、皮膚病まで幅広い患者を受け入れてきた。(草津温泉WIkipedia)
草津温泉が湯治湯としてこれほどまで人気を集めたのは、霊泉の御利益が信仰を集めたからだ。湯畑の上手には薬師堂があり、薬師如来の足元から温泉が湧き出す位置関係にある・・・
この頃はハンセン病(らい病)患者向けの湯があったものの、特に一般客と混浴が禁止られることはなかった。いにしえの草津は病にかかわらず誰もが平等に薬師如来の加護を求める事が出来る信仰の場だったのである・・・・・
ハンセン病は当時、すでに医学的にはこの病気が感染症である事は明らかになっていたが、草津町では遺伝病と誤解されていた様だ。それくらい、この病気ほ感染力は低い。温泉街の宿屋で逗留する患者と寝食を共にしたにもかかわらず、宿屋業者の家族で一人としてハンセン病にかかった者はいなかったという・・・・
(ハンセン病と向き合う人々より引用)
蔵王温泉の効果も同様に皮膚病や万病に効くといわれ、硫黄の匂いが湯気と共に立ち込めている。平安時代の蔵王山(高湯温泉)と瀧山の情景も、このような薬師如来を信仰し病気平癒を願う湯治客でにぎわっていたのではないかと推測出来ないだろうか?
では、
空海を看取った僧侶は?
空海弟子に「真然大徳(804~891)」がいる。空海の甥といわれている。
その真然大徳廟が894年・1131年・1640年と何度か掘り返され墓を造りかえれている。そして蔵骨器も何度かあけられたのか、中には火葬された骨が入っていたとの事。不思議なミステリーがある。
しかし、何者かが、真然大徳はらい病に感染していたのかどうかを確認したかったかもしれないとすればありえる話になるのではないだろうか?
真然大徳が蔵王山や瀧山に来たことがあったかどうかは、ここまでの調べでは不明だが、こののちに、京の都に住む、らい病を患った青年僧侶が自身の病気を住職に相談したところ「出羽の国にある瀧山に行くように」と告げられた。
その京にある寺院は天台宗の最澄と真言宗の空海が共に仏道を探求した寺院だ。
大切な青年僧侶はやがて瀧山寺の住職になるべく京の都から出羽の国へ旅立つ