■日本の古墳時代から奈良時代・平安時代は地球規模の温度低下にみまわれ、農作物収穫量の低下と疫病によるパンデミックがあったのではないだろうか?(西暦400年~1192年頃)。
干ばつと長雨や豪雨は食糧難と貧困を生み出し、支配者達は年貢として取り立てる収入減を補うために戦をする。身内や仲間同士だったり、近隣への侵略だったり。民を兵としてかりたてる為に人口が減少していく。
しかし、日本だけではなかった。西洋史の中世前期はローマ帝国滅亡した暗黒の寒冷期と呼ばれている頃とつながるような感じがするのだ。
■ヨーロッパ中世前期(暗黒の寒冷期)西暦300年頃~700年頃
・ローマ帝国崩壊 (西暦372年~410年頃)
この時代、ヨーロッパでも農作物の収穫量が減少した。
地球規模の温度低下があったとされている。
西暦100年頃ローマの人口は45万人いたと言われているが
中世前期の人口は2万人程に減り、
不規則に点在する都市は広大な荒地や草木におおわれていた。
・496年 → トルビアクの戦い
・507年 → ウイイェの戦い
・535年~552年 → ゴート戦争
・541年~542年 → ユスティニアヌスの疫病
・602年~609年 → ローマ ペルシャ戦争
ゲルマン民族の移動もこの時期となっている。
(Wikipediaより)
■ 平安時代の日記『明月記』藤原定家著
その中に「赤気」がある。
「赤気」とは空に現れた赤い光を意味するもので、オーロラを示している。
1204年2月21日~23日に京都で定家が「赤気」を見ことを記録し、恐れを抱いたことを残している。(Wikipediaより)
京都でオーロラが見られたのは寒冷期から穏やかな時期に移って行った時ではないだろうか?日本とヨーロッパでは地球的に見て温暖化になる時期が少しずれているかもしてない。
着物を重ね着して足を出さなかった平安時代の貴族衣裳から、素足を出して着物を着るようになった室町時代の、女性達が身に着けた衣裳からも変化をみてとれないだろうか?
西暦1000年頃から太陽活動が活発になったようで、
■ヨーロッパでも中世盛期と呼ばれる温暖な気候になって、
膨大な人口増加となった。
ヨーロッパに残っていた広大な森林や湿地は耕作地帯となって約300年位続いた。
しかしその後、
又、温暖な気候から小氷期に移行していくと、
大飢饉・ペスト疫病の流行・社会不安・地域争乱・戦争・人口減少となっていく。
この時期に大航海時代がありコロンブスによるアメリカ大陸発見がある。
さらに、イギリスの百年戦争やジャンヌダルクの名前も出てくる。
このように見てみると、地球磁場の移動により人々は豊かさを求めて戦争し・疫病に苦しみ・やがて人口は減少する。そして、また復活してくるというサイクルの中にいるのではないだろうか?
■では、現在の磁場はどうなのだろうか?
われわれが使用している磁石が示すのは、北極点ではなく「北磁極」と呼ばれる所で、地球から発生する磁力線がすべて集まっている所だ。
地球は惑星であり宇宙の中で自転と公転(太陽のまわりを回る)ことは周知されている事だ。
地球はきれいな球体ではなく山脈や海があり凸凹している為、自転軸が常に同じ所になるとは限らないのではないだろうか?
磁極の移動は地球の核といわれる液体層である外核部付近の流れで発生すると言われている。
火山活動や戦争、都市開発、インフラ整備による地下水の移動、森林伐採等、様々な要因で移動しているのではないだろうか。
近年、「北磁軸」はカナダ北極圏からシベリア方面に傾きが移動しているとの研究がなされている。
南極にある「南磁場」の移動は見られないとの事なので、双方の磁場が近づいたり入れ替わったり(ポールシフト)が起こるのではないかと恐怖を感じている人々も少なくない。
■神仏に願いを
古来、天変地異や疫病、凶作に心を痛め、未来に不安を感じ、
少しでも自分の行く先の安全を確かめたいと願うのは昔もあった事と思われる。
大変な時代こそ神仏への願いと祈りがあったのではないだろうか?
現代の私達が、
暗闇で自動車を運転するとき、ヘッドライトを付け、先が安全であるようにと・・・・
さらに、
現在では、「宗教は持ってない」「新興宗教か」などと、
無宗教が、賢さや理性の象徴の風潮がみられているが・・・・
それは当然で、
毎月決まった給料を長い年月、手に入れる事が出来るのであれば、
不安なく生活を維持することができるため、神仏に生活の維持を願う必要はなかった。
現代は、どれ程に「幸福な民」だろうか?
■さきほどの、藤原定家の『明月記』を著した貴族も
42歳の頃は生活に困窮したような記がある。
建久9年~建仁3年の頃、藤原定家の生活は最も貧乏で苦しんだ時であると言われている。石田吉貞氏(藤原定家の研究者)
貧乏の原因は、第一に荘園よりの収入不足に基づくものとしている。
定家の荘園は吉富、越部、小阿射賀の三荘が主要なものであったが、越部は洪水のため損害を受け、吉富、小阿射賀の二荘は地頭の妨害のため、収入が社絶し、ために定家は致命的な打撃を受けたと言われている。
貧困の第二は生計費の増額。子女の出産や社会的地位が高まるにつれて家僕の増加。収入が間に合わない。
第三は母の死。母は定家を深く愛し生活を補助していた。収入減。
(医学からみた中世の文学者:服部敏良氏)
こうしてみると、現代における会社勤務と給料は、神仏以上のものではないかと思ってしまうが・・・
何故、古来の人々は神仏に祈りを求めたかは、
気候変動による農作物の安定と荒れた天候での漁業の安定と安全、それらから徴収する貴族達が自分の収入の増加を願ったのではないかと推測できる。
更に、疫病退散も、もちろん祈願し続けた事柄と思われる。
常に、寺社参拝祈願は、人々の生活と隣り合わせだったのではないだろうか?
■山そのものが霊山とは?
人々が神仏として拝しているのは、光ではないかという仮説をたててみた。
人間の可視光線外の物ではないか?
赤・黄・緑・青・紫の布が神仏に使われているがこれは可視光線を意味しているのではないだろうか?
仏像は金箔をはられ、神社には鏡が置いてあることが多い。
その由来は輝くもの、輝く事は光線。
■明るさ、まぶしい光(太陽光線)
晴れた日の太陽が降り注ぐ明るさは → 1000兆個(光の粒子)
室内の灯り → 1~10兆個(光の粒子)
満月 → 10億個(光の粒子)
10m先にいるホタル → 1億個(光の粒子)
0等星 → 1万個(光の粒子)
(phntonてらすより引用)
その、まぶしさの中に、あるものなのかは(光の粒子由来)なのかは不明。
ただ、植物と光の関係・動物との関係・人間との関係を考えても、そのまぶしい光の粒子を浴びなければ健康を保てないのは間違いがない事だけは理解できる。
つづく・・