知らぬ間に、らい病に感染してしまった若い僧侶は「蔵王温泉(昔は高湯と呼ばれていた)」は蔵王温泉の西側にある小高い丘の「瀧山」に住職として赴任してきた。
彼は京都から徒歩で富士山を眺め白石(宮城県)を通り、羽前街道を歩き、宮城蔵王の方から登り、山脈を越えてたどり着いた。それが昔のメインルートのようだから。
彼は20代でこの地に着いて、1187年の早春に息を引き取ったので69歳位まで長生きできたのではないかと思われる。硫黄の強い蔵王温泉は彼に健康をもたらしてくれたのではないだろうか?しかし、最後はらい病が身体をむしばみ、庵で養生する生活をしていたと思われる。高齢になり温泉に浸かる事が困難になったころから病状が悪化してきたのかもしれない。現在のように良薬が無い時代だったから・・・
瀧山寺の住職は、瀧山全体を「祈りの山」として仏教文化の華を咲かせた人物。
今に伝わる「300坊」・・・300件程の宿坊があり、それぞれが医僧(病気を治す僧侶)達の精魂込めた治療をする場となっていた。
その宿坊を持つようになる僧侶達は、幼子の時に親から寺に預けられた子供達だった。
当時は子供を僧侶にするとその一家が仏に守られると信じていたために、様々な土地から幼子が集まってきた。
その為、幼子を育てる乳母がいて、「乳母神様」が祭られ元気に成長するようにな仕組みが寺社に出来ていた。
厳しい修行の結果、やがて僧侶としての名前を住職からもらい、宿坊を与えられると、教えられた事だけではなく、それぞれの工夫で特色のある宿坊が点在するようになった。
そうして瀧山寺(仏教文化)は西側の西蔵王の土地にまで広がって行った。
ひな人形の様な優しい顔立ちの住職は顔に包帯を巻いた姿で参拝者のためにお経を唱え幸いを祈願し、月のごとく穏やかで静かに職を全うしていたのではだろうか・・・
・・・・・・・・・・住職の名前は 如月 というのではないだろうか?
西行の幼いころからの親友で歌人の・・・大原三寂と呼ばれていた兄弟の末子
寂然ではないかと・・・・