西蔵王の中腹に「三百坊」という名の蕎麦屋があります。おいしい蕎麦で山菜の天ぷらも近くの西蔵王で採りたての物を作って出してくれます。
その、「三百坊」そば屋の存在と由来が書いてある小さなパンフレットから、瀧山物語の探索が始まったと言ってもいいのかもしれません。それは下記の物です↓
西行法師が訪ねて来た僧とはどのような人物だったのだろうか?
西行は生涯で2回東国(東北)に旅をしている。
『西行の生涯』を研究している某氏の貴重な資料から引用させて頂き、
歴史探索を進めてみたいと思う。
1118年 : 佐藤義清(のりきよ)生誕と言われている。
父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経
奥州藤原氏と先祖を同じくする。
1135年 : 18歳で成功によって兵衛尉に任じられる。
※成功とは官位を買う事。
1140年頃: 22歳か23歳の頃 出家
1147年6月:30歳。陸奥の国に旅立つ(この年、源頼朝が生れる)
1148年 :平泉で東稲山の桜を見る。
1149年 :秋から冬の頃京都に戻る。
『撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。
、【鬼の、人の骨を取り集めて人に作りなす例、信ずべき人の
おろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨を
あみ連ねてつくりて侍りしは~
を集め並べて骨に 砒素(ひそう)という薬を塗り
反魂の術を行い人を作ろうとした。・・・
・・・うまくいかなくて野原に捨ててしまった・・
1152年頃 :西行35歳 何度か遠くに修行の旅
西住と行動を共にしていた。
人物でほぼ同じ年。
で、そこから歴史は難解な殺りくが繰り返されて
いく事になる。
さらに、佐藤義清(西行)が
それを見咎められて
親族や子供に災いが掛かるのを防ぐために出家した
との説がある。
崇徳院は何者かに襲撃され没した。
1168年冬:西行51歳 四国の旅に出る。
慰める話
・ 弘法大師の遺跡参り。
「善通寺」あたりに
庵を結んで住んでいた」と書かれている。
そこは空海の父、善通の名をとって寺号とした
とも言われ空海の先祖、佐伯氏の氏寺とも
言われている。
善通寺は75番の札所で、
1171年:西行54歳 四国から戻り熊野にて修行。
1172年:西行55歳 親友で修業を共にしていた西住が
危篤との知らせで都に駆け戻り、看病し看取った。
西住の死を悲しむ西行を気遣う歌を届けた
寂然もその時、病の床に臥していた
可能性が高い。
この歌の後寂然の歌は現れない。
1180年:西行63歳 伊勢に住居を移す。
平重衛の焼き打ちにより奈良東大寺大仏が焼失。
重源は被害状況を視察に来た後白河法王の使者
藤原行隆の推挙により
再建のための勧進職に就いた。
奈良の大仏は当時、顔にだけ金箔が貼って、全身には
資金が無く金箔を貼っていなかった。
奥州藤原氏から
砂金を寄付してもらうように西行に依頼してきた。
重源は資金集めに苦慮し、協力の約束を違えれば、
現世では「白らい黒らい」(重度の皮膚病:らい病・天然痘)
の身を受け、来世では「無間地獄」に落ちて脱出できない。
等と恫喝的な文を残している。
しかし、
もう一つの理由があったと思われる。寂然の安否・・・
義経を捕らえるための関所があったので「通行証」が
必要だった。
聞き書き留めたものが
現在の鎌倉祭りで行っている
流鏑馬として伝えられている。
※この時期、関所を通りぬけた
に各寺を回っていると・・
そうして、義経を連れ関所を逃れた話。
銀の猫をもらったが、近くにいた子供にあげてしまった
という逸話がある。
当時、銀は高価なもので、大仏造営の目的で奥州に旅を
しているという目的には反する行為となってしまう。
1187年:西行70歳 旅より帰る。
京都嵯峨の庵に住み、
旅より帰ってから、生涯の作品を整理しながら
子供遊びを題材にした「たわぶれ歌」を読む。
※たわぶれ歌は私日記的なものと思われる。
・「竹馬を杖にもけふはたのむかな、
童(わらわ)遊びを思ひでつつ」
訳:幼い時の遊び道具の竹馬を、今日は杖として
頼むみになってしまった、子供の頃の遊びが思い
出されることよ。
・「昔せし隠れ遊びになりなばや、
片隅もとに寄り伏せりつつ」
訳:昔した隠れんぼをやりたいものだなぁ
今も子供たちは私達が子供の時にしたように、
あちらこちらの片隅に臥せてたくれているよ
幼いころからの友人は・・・・寂然?
そして・・
死が近いことの予感のもとに、
自分の歌2首を提出し、どちらが良いか評価して欲しいと
訊ねている。
その一首の中に
ねがわくは はなの下にて春しなん
そのきさらぎの もちづきのころ『山家集』
評価を依頼された当時の権力者 藤原俊成は
美しくない と 却下した。
この西行の最後の行動のなかに、何か挑戦的な意気込みが
感じられる。待ちに待った判定が藤原定家から届いた時の
西行の喜び様には何かが感じられる。
西行生涯 日本の歴史より
1190年2月16日:西行73歳 河内の広川寺で、没す。
西行法師が、高齢の身体で奥州に一人旅をする理由は?
西行法師が、桜木を植樹する理由は?
特別な思いがあったのではないだろうか・・・・
・東の方へ相識りたりける人の許へまかりけるに
小夜の中山見しことの昔になりけるを思ひでられて
年たけてまたこゆべしと思いきや 命なりけりさやの中山
訳:東国へ知人を訪ねていく時に 小夜の中山を越えたことが昔になったと思い起こされて
こんなに年老いて この小夜の中山を再び子超える事が出来ると思っただろうか
それなのに今またこうして小夜の中山を越えようとは まことに命があるおかげであるよ
伊勢の地で安住の生活をしていた西行が老体を押してまで奥州まで出向かわなければならなかった理由についてはいろいろ考察されている。身分もない地位もない西行である。その西行が奥州を治めている権力者になぜ貢献を督促できるのか。
そんな穏やかならぬ土地へ七十にならんとする老僧が行けると思ったのか。
どうしても行かねばならぬ思い
どうしても会いたい人がいる
そう考えてよいのではないだろうか?
しかし・・・
たどり着いたとき、会いたい人には会えなかった・・・・
もしかして、桜の苗木を供養として植樹したのかもしれない。
瀧山の山頂、「龍山寺」から見下ろせる場所に。
毎年春、花が咲いたら 西行がここにいるよと知らせるように。
桜の木は800年以上ここにある。
若い木は衰えていき。やがて、枯れていく。
桜の実は 地に落ちて やがて若い芽を出し育っていく。
幾年も、幾年も、繰り返し、桜の木は大きくなって増えて行く。
心優しい土地の人の手を借りながら続いてきた・・・
瀧山寺の住職が 西行法師の幼少からの友人と仮定すれば
西行30歳の旅
最初の陸奥の国への旅は、奥州藤原氏の後に、瀧山寺に立ち寄り、
冬期間を蔵王で過ごして行ったのではないだろうか?
奥州平泉には10月に着いている記録があるから、
蔵王温泉・瀧山寺には11月に着き、雪が解けるまで過ごして
いたのではないだろうか?
・岩間せく木葉わけこし山水をつゆもらさぬは氷なりけり
・水上に水や氷をむすぶらんくるともみえぬ瀧の白糸
その他にも氷をよんだ歌は数多くある。
和歌には表面の意味とメッセージが重なっているものだが・・・
さらに、二人は好んで月を題材にした。
・常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる
訳:いつもの年よりも心細く感じるなぁ 旅の空の下で年がくれていくよ
雪が解け、春の兆しが見え始めたころ・・・
西行法師は山を下りて、都へと帰って行く。
春が近づく気配を眺めながら、友人との別れを感じていたのではないだろうか
お互い30歳の若い僧侶で歌人の二人は
この雪解けの春風が今生の別れとなった。
しかし、遠く離れていても、和歌をしたため 行きかう人に届けてもらいながら
55歳頃まで交流は続いていたと思われる。
もう一人の友人、西住が亡くなった頃までは。
・・懐かしい思い出・・
貴重な 某氏の西行研究から・・
(西行の生涯を研究し、より正確な資料を残して下さった先生に感謝しながら)
為忠が常盤に為業待りけるに、西行、寂然まかりて、太秦にこもりたるに、
かくと申したりければ、まかりたりけり。
有明と申す題を読みけるに
今宵こそ心のくまは知られぬれ、入らで明けぬる月をながめて
要約:今宵こそ、本当に心の隅々まで知り合うことが出来た
西の山に入らないで一晩中、夜の明けるまで明るく
照っている有明の月をながめながら
そうこうしているうちに静夜、寂昭らがやってきて
話をしながら連歌になっていった。
秋で肌寒いので(西行と寂然は)背中合わせになって連歌をつくり
すごしたのでした。
さて、明けにければ、各々山寺へ帰りけるに、後会いつと知らずと
申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ 又逢うことの定めなき世や(寂然)
要約:帰って行く人も、ここにとどまる人のことも思っています。
又、いつの日、逢うことが出来るか定めない世でありますね
西行が出家して間もない頃の、若い僧達が過ごした様子。それぞれが修行の
寺に戻り、厳しい修行の合間に和歌を詠んで交流していたと思われる。
西行から
入道寂然、大原に侍りけるに、高野よりつかはしける
山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づき初むる櫨の立木
入道 ごく親しい呼び名
秋になって行く風景をつづった手紙様の和歌
返し寂然
炭がまのたなびく煙一すじに 心ぼそきは大原の里
なにとなく露ぞこぼるる秋の田に ひた引き鳴らす大原の里
ひた 鳴子 田畑を荒らす鳥を追い払う物
西行法師は生涯、友達を守るために奔走していたのかもしれない。
たぐいなき おもいではの桜かな
うすくれなゐの 花のにほひは
① 類のない 思い出羽 の桜かな少し赤い 花の香りは
② 何ものにも代えられない 思い出は 野桜(山桜)のように
周りにある草木の中で少し赤く 香も強く 生涯でも忘れられない事だ
桜は平安時代、京の都に咲き誇っていた・・・・
幼き頃は桜の花が咲き乱れる京の都で友と語らい過ごしていたのかもしれない・・