「高貴な血縁」という多くの源氏や藤原氏達が、さらなる勢力と優位な立場を求め、様々な場面で対立を繰り返していたのかもしれない。
東北地方は昔、激しい戦いが続いていた。
(奈良時代)坂上田村麻呂が奥州の支配者だった阿弖流為(アテルイ)を
和睦のために都に連れていき「だまし討ち」で殺害してから
東北地方(出羽・奥州)には
官人として、朝廷の役人や藤原・源氏が赴任するようになっていた。
余談:最澄(天台宗)は幼いころにアテルイとの戦いで叔父が戦死して無常を感じ
貴族の息子だったにもかかわらず僧になることを決意した。(伝教大師伝より)
それ程までに、都から軍兵として多くの人々が出兵し悲しむ人々が増えて
豊かな東北の地を欲しがっていたと思われる。
「羅生門」(芥川龍之介)に出てくるような飢餓が都に蔓延していたのではないだろうか?
坂上田村麻呂が制圧し
朝廷が東北地方を手に入れてからしばらくして・・
1051年~1062年
1083年~1087年
平安時代に東北地方で長い戦いがあった。
前九年の役で有名な話は、
「阿久根川事件」
清和源氏の源頼義は陸奥守の任期が終わる(1056年)2月、阿久利川の湖畔に野営している時、「配下の官人が夜討ちにあって損害が出た」と密使が来た(本当かどうか?)
さらに、
配下の官人の光貞は、「敵の安倍貞任が光貞の妹と結婚したいと申し込んだが、
安倍氏のような身分の賎しい一族に妹はやれないと断ったので仕返しに違いない」
と源頼義に訴えた。
そのことにより、安倍氏と朝廷の戦いが再開し、長い戦いとなっていった。
朝廷側の兵力は10000人位。(源頼義軍は3000人位)
阿久利川事件は、
説がある。
一部の人間の感情で、どれほど多くの人間が命を落としたのだろう・・・・
成沢八幡神社(蔵王成沢地区)
1057年
敵の安倍氏に戦勝するように祈願神社として
瀧山(西蔵王)のふもと、成沢地区にたたずんでいる。
瀧山寺住職が生まれる60年くらい前。
石の鳥居が建立されたのは1109年の頃と判明しているとすれば、
瀧山寺住職が20歳頃に赴任してくる
10年前に建立されたことになる。
蔵王・瀧山の仏教文化は「前九年の役」が始まる以前から、人々の信仰を集めていたことになる。
1063年1月・・・源頼義は騒乱を収めた。
少し落ち着いた情勢の中、
今度は兄弟骨肉の争い
「後三年の役」が勃発した!!
1083年~1087年
「前九年の役」の後、
それぞれ母が違う3人の兄弟は
・・・・不仲だった。
それぞれが、
源氏や平氏(天皇と同じ血縁)の血を引く女性との婚姻をもくろみ、
嫡流(リーダー)を争うようになった。
清和源氏の血縁女性との婚礼に招待された親族の吉彦秀武が、朱塗りの盆に砂金を盛って祝いの挨拶に出かけた時、
清原氏惣領の地位を継いだ清原真衛が、
見向きもせずに碁にふけっていたのに腹を立て、吉彦秀武は砂金を庭にばらまいて帰宅した。
砂金を庭にまいた行為が傲慢だとして、清原真衛は吉彦秀武に軍兵を差し向け、後三年の役が勃発した。
清和源氏の血を受けた女性とは、京の都から来た女性ではなく、
源頼義が、
朝廷軍を引き連れて前九年の役の戦いに向かう途中に、
平宗基の娘と一夜を共にして生まれた娘との説が有力。
多くの人間が戦い・・死亡した・・・・
朝廷は、鎮圧のために
再び奥州に差し向けた。
朝廷軍は、清原清衛を擁護し、
勝戦した。
清原清衛はすべての清原氏旧領を手にいれ、そして、清原清衛を
藤原清衛に改名し、奥州藤原氏となった。
その後、100年程、奥州藤原氏の繁栄が続いた・・・
皇室の血を引く貴族昇格を目指し
「血縁戦略」が続けられていく世の中、
優位になるための婚姻を幾度もくりかえし、
敵方の婦人とも婚姻を繰り返し、
兄弟は多くの家臣や下僕に武器を持たせ、
多くの命を犠牲にして戦った・・・
官位と身分をもとめて・・
(学歴社会・資格者社会の現代人も同じような事。金持ちの家に生まれるか否かで人生が決まるのだから)
人は何かのために・・あがき続ける・・
戦いに「正当な意味」はあるのだろうか???
・・大勢の命を奪って終結した・・
瀧山が焼き討ちされ医曽達と患者達、500人以上が殺される120年ほど前。
奥州藤原氏が滅亡する奥州征伐(欧州合戦)の120年ほど前。
歴史は、まだ、断片的にしか語られていない・・・
真実を知ることは、大事なことではないだろうか?
東北地方には軍事用の道路があり「駅」が存在した。(古代の交通網)
そして、
蔵王・瀧山の裾野には、
渡来人による金・銀・鉄などを抽出加工する
古代の工業地帯があったのかもしれない。
そこでは刃物などの武器を製造していたのだろうか?
それは、知られたくない朝廷の秘密だったのだろうか・・・
後編に続く・・・