知っている人はどれだけいるのだろうか?
500人以上の患者と医僧が焼き討ちされ歴史から抹殺された事件を調べていくうちに、さらに多くの事柄が少しずつ判明してきた。
大和時代と言われるときにはすでに多くの民が高度な文明の中で生活していたと思われる。
それは・・・
朝鮮半島の三国時代とも重なり合う時代
中国大陸の「唐」と朝鮮統一をした「新羅」に滅ぼされた国「百済」の王族の
一部は日本の地で生活を営んで高度な文明を伝えていた(渡来人と呼ばれてる)
しかして・・・
日本とかかわりのある・・・・
<白村江の戦い>
百済復興軍として日本(倭)も援軍を送ったが間に合わず、将軍ケベクは戦死した。
対戦
唐軍 対 日本軍(倭)
13,000 : 42,000
唐船舶 対 日本船舶(倭)
170以上 : 800余
不明 : 不明
日本(倭)の百済救援隊は
一回 → 661年5月
二回 → 662年3月
三回 → 663年8月28日
白村江の戦い 大敗
国が無くなるということ・・・
統一や侵略で他国が攻めてきて
営んできた生活がなくなる事・・・
当時、朝鮮半島では権力争いのために皇子暗殺はあり得ることで、回避のため他国での養育があっても不思議ではなかったと思われる。
その皇子が成人した時には養育先から結婚相手を求め、その国との姻戚関係を受けて勢力を広げ絆を強固なものにしていったのかもしれない。
斉明天皇が自ら出兵した様子や、中大兄皇子(のちの天智天皇)の様子から、以前より百済と日本(倭)は血縁関係があったと想定しても不思議ではないのかもしれない?
wikipediaより引用
wikipediaより引用
白村江の敗戦後、
「倭」の国は唐の攻撃を回避するために
遣唐使を派遣し、
都も内陸(奈良や飛鳥)移転し
日本に名前を変えた。
壮絶な権力争いに日本(倭)も関わっていたのが、大和・飛鳥時代
だったのではないだろうか?
東北地方の歴史に関心を持ってみると、
シルクロード経由で北海道や青森、秋田・山形・新潟から、背が高く体の大きな民族が海を渡り住んでいたような感覚になる。
蝦夷と呼ばれている民族。
そこに、朝鮮半島から海を渡ってきた民族。
つまりは、
多種の民族が小部落を形成し点在していたのではないだろうか?
あらためて年表を確認してみる。
<古墳時代>
倭の国はどこにあったのか?
様々な意見があるが、島根県出雲にあったとの説がある。
この頃までには戦いの記録はない。
- 350年頃 大和朝廷の統一
- 367年 : 百済の使者がくる。
- 369年 : 朝鮮半島に進出。
- 391年 : 倭(?)出兵し百済と新羅を破る。(北九州拠点?)
- 400年:高句麗軍が南下し伽耶(朝鮮半島にある日本領土)を攻撃。
- 404年:倭(?)軍が帯方軍に出兵し高句麗軍と戦う。
- 413年:倭(?)国が晋に貢物をする。
西暦350年頃からは
積極的に朝鮮半島の戦いに参加していることが年表で確認できる。
そして、白村江の戦いで大敗するまでは北九州が日本軍の拠点と思われる。
仮説として、
北九州大宰府にある「倭国=大和朝廷」は別のものだったのではないか????
能の演題にある「土蜘蛛」などから想定されている。
桃太郎の鬼ヶ島退治・等等
退治という言葉で、古くからいた民族を征服して行ったのではないだろうか?
何故
蔵王や瀧山が
大和朝廷や朝鮮半島の政治と関係があるのか?
郷土史の書籍を確認してみると・・・↓
作者:清野春樹氏
制作:米沢日報デジタル・(株)置賜日報社
清野春樹氏は興味深く積極的な探求をされている。
蔵王のふもと
上山市には、金瓶・金生・金谷 等の地名が点在していること。
上山市は須川と呼ばれる蔵王から流れてくる川と最上川の支流が合流する場所がある。
古来より製鉄が行われていたのではないか?
( 山形歴史探訪3 より ↑ )
「山形歴史探訪3」をさらに読みすすめると・・・・↓
落合の刈田神社には金山彦命を祀っている。
刈田のカルという言葉は古代朝鮮語で刃物や銅を表している。
そして、
金瓶の地名は多くの砂鉄(砂金)が取れたことが由来となっている。
この地域では金属精錬や加工が行われたのではないだろうか。
さらに、
この付近では「鏡」の姓の方が多く住む。
( 山形歴史探訪3 より ↑ )
蔵王地区・上山地区は古代より
温泉も湧き出ており、
砂金や銅、鉄の採掘と加工の賑わいある地区だったのではないだろうか?
最初の黄金献上
百済王敬福(くだらのこにしき きょうふく)は
749年、朝廷に陸奥小田郡で産出した黄金900両を献上した。
聖武天皇は狂喜して東大寺大仏殿に行幸し、仏前に詔を捧げると共に、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。
産金に貢献した他田舎人部常世・小田根成も十階以上昇進して外従五位下に叙せられた。
さらに、
歌人・大友家持は次のように黄金産出を寿ぐ。
すめろぎの 御世栄えんと 東なる みちのく山に 黄金花咲く
こののち、
10年余にわたって
年間900両~1000両の金が
陸奥国司を介して朝廷に貢納されたとみられる。
750年、河内国交野郡に百済寺を建立し、一族の本拠地を移したと考えられている。
wikipediaより引用
貴重な黄金を運ぶためにも、交通網は整備されていた。
駅制・・伝制
「大宝律令」では、駅の設置は大路30里(約16km)ごとに一駅が原則。
駅家に置く 駅馬の数は、
- 大路で20疋〈あし)
- 中路で10疋〈あし)
- 小路で 5疋〈あし)
駅馬を使者が利用するときは、駅鈴(えきれい)を携行する。駅使と呼ばれた。
位階により 駅鈴の剋(きざみ)が違い、位階が高ければ使用する駅馬も多かった。
政府専用 軍用道路でもあった。
道路幅は広く 大路では10m幅の直線道路だった。
( トンネルがあるかは不明・・・)
さらに、
清野春樹氏は
興味深く積極的な
探求をされている。
さらに「山形歴史探訪3」の内容を紹介すると ↓
焼き討ちにあった瀧山寺をそのままにしておくのはしのびないとして、石行寺の住職、宗海は農民に生活の助けをしながら、
中桜田の地に「瀧山寺」
飯田の地に「普門寺」を祀り
二寺を石行寺の末寺としておさめた。
( 山形歴史探訪3 より ↑ )
石行寺=岩波にある天台宗の寺院
、
飯田の地にある「普門寺」は飯田観音のそばにあり、
現在は標柱のみになってしまっている。
焼き討ちで、医僧と患者(らい病患者を含む)500人以上が殺害された「瀧山寺」。
心ある住職と地域の人にひっそりと供養されていたことに、少し心が軽くなったような思いがする。
そして、なんという偶然なんだろうか・・・・
同じ飯田の地に、「山形大学医学部付属病院」が建っており、普門寺の標柱がある観音堂の高台から日々、病院が見えている・・・・
それは、まったくの偶然にすぎない・・・・が
<余談>
金・銀・銅 や鉄 などの採掘は日本中に始まった。
北海道から九州まで
採掘が当たり前の仕事となり、「黄金の国」となっていった。
東北地方の鉱山 を Wikipeia に探してみた ↓
- 東北地方だけではなく・・・・
各地で採掘がおこなわれた。 - 京都→金・銀・銅
- 奈良→水銀・銀
- 吉野山→銀・鉄・銅 (吉野山は鉱山だった)「蔵王大権現」
- 和歌山→銅・金
- 兵庫→金・銀・銅
- 滋賀→金・銀・銅
- 静岡→金
- 山梨→金・銀・銅
- 富山→金・銀・銅
- 新潟→佐渡→金・銀・銅(1600年~)
- 埼玉→秩父→金・銀・銅
- 栃木→金・銀・銅
- 茨木→金・銀・銅
- 鳥取→金・銀・銅・砂鉄
- 岡山→金・銀・銅
- 山口→金・銀・銅
- 愛媛→金・銀・銅
- 高知→金・銀・銅
- 九州→金・銀・銅
つまり・・日本国中で金・銀・銅は採掘出来たことになる。
(Wikipediaから引用 ↑)