この探索の始まりは
■郷土史研究会で毎年行われる「龍山登山」に参加した時のことだった。
平成18年の集合写真に不思議なものが写り込んだ。
拡大してみると、赤・黄色・緑・青・紫の布ようなものと、僧侶の顔だった。
なんだろうと思いながら・・・気にもせず。
・・・・・・・
■翌年の「龍山登山」で同じ場所での集合写真に
それは、郷土史を研究する者への
「本当のことを調べて欲しい」
というメッセージと受け取れた。
検証を続け、探索の旅は続いているが、
知ってはいけない真実。
この世の中に、生きて存在してはいけないかった人物。
が・・いたことに辿りついた。
■1000年という年月が流れた今、
巻き込まれて命を亡くした人々は,
自分が殺された理由を知りたいと願っているのではないだろうか・・・・。
次々と驚くような歴史の隠された秘密が開かされていくなかでの、
「瀧山物語」は・・削除された歴史の扉にたどり着いた・・・
■その前に、これまでの事を振り返ると ↓
長い年月で山は崩れ、
にぎやかに参拝客が途切れることないような繁栄は想像もできない。
図面にしてみると↓
■瀧山寺は確かに存在したと思われる。
山頂に、今も残る瀧山神社。
■その寺は、信仰と病やケガの治療も行っていた。
奈良時代の「行基菩薩」の意思を伝える空海(弘法大師)を祖として、
病む人・貧民を救済していた。
その宗派は、天台宗の寺門派
■天台宗(最澄)の比叡山は、天皇や皇族の健康と国政の安寧を願い、現代に置き換えれば大学院や政治学者の研究所のような感じなのかもしれない。
国家公務員としての官僧は国と天皇のために祈りと用事の遂行をしていたと思われる。
■真言宗(空海)は、貧民救済や橋・貯水池の建設等、民を救済した「行基」の集団に若いころは属し活動していた。
その2つが合流したのが天台宗の寺門派
空海が唐より持ち帰った密教を、最澄が教えて欲しいと依頼したことが始まりの宗派。
その瀧山寺が焼き討ちで消滅してから167年位いの年月が過ぎた頃
裾野に2つの寺が出来たと思われる。
1⃣上桜田の地に瀧山寺(りゅうざんじ)
そして、
2⃣飯田の地に「普門寺」(ふもんじ)
現在の
1⃣上桜田の地に「瀧山神社」(りゅうざんじんじゃ)と瀧山寺(りゅうざんじ)
それらが建てられたのは鎌倉時代が過ぎた南北朝(1356年後)と思われる。
斯波兼頼(最上家の祖)が「出羽の国」の按察使(あんさつし)として山形に城を築いてからの事と思われる。
瀧山神社や瀧山寺に対して、
2⃣飯田の地にある「普門寺」は趣が違っている。
普門寺跡の向かい側に「弘法大師堂」がたたずんでいる。 ↓
そして観音堂が見守っている。↓
さらに、
↓ 小さいほうの墓に書かれてある文字は読み取ることが不可能だが、
大きな墓の方はかすかに頭にある梵字と下方にある文字は居士と読み取れる。
墓が二つあるということは、
普門寺は少なくとも二人の真言宗派の僧が60年~80年間くらい居住して読経の生活を送っていたのではないだろうか?
■疑問?二つの宗派が?
現在の状況
■宗派の疑問を平安時代にさかのぼると
(瀧山寺繁盛の頃)
確かに、瀧山寺は寺門派で、
その繁栄や僧たちの生活行動を
天台宗山門派や後白河法皇の官僧の臨済宗から偵察をされていた。
■瀧山寺が焼き討ちされた直後頃は・・ ↓
天台宗山門派は何故か臨済宗に改宗され、臨済宗の寺院になっていた。
しかし、
■鎌倉幕府滅亡後・・・・・ ↓
奥羽の地は、斯波家(最上家の祖先)の領土となり、
山寺は元の天台宗山門派に戻った。
それは、南北朝時代
という特徴があったからではないだろうか?
●鎌倉時代は、源頼朝が「源氏」の血を引く将軍だったためか、北条氏となった鎌倉幕府も、京の都にいる皇族との血縁が結ばれていた。
それは、京の都で政治を行う天皇と鎌倉幕府で政治を行う天皇が出来たということになる。やがてそれは、戦乱の種となり京の都で政治を行う天皇により、鎌倉幕府は滅ぼされた。
1333年「元弘の乱」で鎌倉幕府を討伐した後醍醐天皇は、京の都で天皇自らが政治を行う「親政」を開始したが失敗に終わった。(大覚寺派)
やがて、王権は分離し
※斯波一族の縁者が奥州に来て出羽に分離し、最上家となった。
<余談>
勝者は武士の足利氏だった。そして室町幕府になっていく・・
このような時代に、瀧山寺・普門寺は建立されたのかもしれない。
<大切な余談>
宗教は人間にとって大切な学問
宗教は政治や財力のあるスポンサーを必要とはするが、それは学者や研究者の集団(研究室や大学院)というべきものと思われる。
「人間はどう生きるべきものなのか」を物理学的に研究していたのではないかと想われる。
人間を分解すれば→肉→細胞→分子・原子→電子(エネルギー)となる。
+と+は反発、-と-は反発。 人間は+と-の巨大な電子の塊。
巨大な電子の塊の人間が(動物も含め)
争い合うのは必然なのかもしれない。
(似たような電子の数をもっていたなら)
いつの日か、人間は争い合い、
地球を壊す(爆発させる)事
も必然なのかもしれない。
そして宗教とは
太古の時代に地球の未来が予測され、危険を回避することが出来る様に「この地球で生きる方法」を教えていたのかもしれない。
又、それは神仏という光の中に在るものたちの手助けによってかもしれない。
有名な般若心経は「無」
(有るようで無い、無いようで有る)
般若心経を掘り下げていくと物理学の世界と宇宙に入っていく。そして空海の曼荼羅は可視光線を超えた光の部分に入っていく。
密教は他者のエネルギーに侵入する。そして禅は自分の中のエネルギー(電子)の状態を確認するのではないだろうか。
これ程まで人間にとって大切な学問も、財力というスポンサーなしでは成り立たないことに苦悩と困難が出てくるのではないだろうか。
宗教が非常に大切な学問(物理学的にみた人間の状態=宇宙に存在するものとしての)だからこそ、国を治めるときに必要とされてきたのかもしれない。<余談終了>
■2⃣「普門寺」・・・
臨済宗や天台宗に属することもなく、真言宗の色を残し、僧侶の墓が2つ残されていることはやはり、空海(弘法大師)ゆかりの別格な寺ではないかと想像される。
しかし、
「瀧山寺」住職如月(寂然)を祀るには不自然・・
如月(寂然)は1987年の1月か2月頃に老衰でなくなっている。親友の西行法師と生きて会う事なく山頂付近で火葬されている。
すべてが灰になった山頂から遺骨を掘り出しこの地に埋葬したと考えるのは少し無理がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
時をかけて探索する方法をしてみると、大変興味深いことが見えてきた。
江戸時代(元禄)
隠密ではないかとの話もある旅の事。
■元禄2年・1689年
西行法師没後500年記念として行った?
西行法師の足跡を訪ねるとの事で、「奥の細道」の俳諧旅が行われた。
「奥の細道」松尾芭蕉は1689年(元禄2年)に、芭蕉が崇拝する西行の500回忌として奥州・北陸を旅したといわれている。
旅の終わりは1691年(元禄4年)の2年にわたる旅。
それから25年後
1716年~1736年の20年間にわたり、寺やお堂や記録が消失した観音寺院があった。
■奥の細道紀行
隠密旅行だったとしての解釈を試みた。
江戸を出発し、白河の関を通過し、
■松島の俳句
・島々や千々に砕きて夏の海 (芭蕉)
松島やああ松島や・・芭蕉の作品ではなく相模の国の田原坊の作品
砕け散って何もない景色で平穏
■一関の俳句
・この梅に牛も初音と鳴きつべし
・梅の香にのっとり日の出る山路かな
のどかな風景で何もない平穏
一関は菅原道真公の婦人の墓があるところ。
■平泉の俳句
・夏草や兵どもが夢のあと
すべては昔の事で何もない平穏
■山寺の俳句
・静かさや岩にしみいる蝉の声
静かな景色の中だけれども気がかりなことがある
平安末期に天台宗→臨済宗に変わり、鎌倉時代が終わると、天台宗に戻った寺。
■上山にある俳句
・名月や麓の霞や田の曇り
名月(十五夜・望月)は明確だがその他は曖昧。
・木のもとに汁もなますも桜かな
桜(昔の事)がそのままになっている。
「奥の細道」で立ち寄ったと明記のない場所。
蔵王温泉から採取する硫黄を運ぶ船着き場「高野」があるところ。
■大石田(高野一栄宅に滞在中の俳句)
・五月雨を集めて涼し最上川
最上川の船着き場である場所。
船に乗れば上山まで往復もできる場所。
情報は歴史の川に流して平穏にしたほうが良い。
■酒田(寺島助亭に滞在時の俳句)
夜に曾良がなかなか眠れなかったと日記にある俳句
夕日のように過去を沈めて時に流す方法が必要と報告
そして
※ 鶴岡は菅原道真の9番目の子供の子孫が住む土地。
※ 松尾芭蕉は京都の臨済宗寺院に到着し、墓石も臨済宗の寺院にある。
※ 旅の依頼も江戸にある臨済宗の寺院から?
※ 資金は豊かで各地で接待を受けている。
ちなみに
西行法師がみちのくを旅した順路は、
松尾芭蕉の道順は
白河の関→松島→一関→平泉→鳴子→尾花沢→山寺→最上川→酒田→北陸→京都
<余談>
松尾芭蕉と曾良が旅した従路は、欧州合戦と、源義経が京都から落ち延びた順路といったほうが正確なのではないだろうか?
西行法師と松尾芭蕉
二人に共通する言語が出てくる。
■西行法師は
願わくは 花の下にて春しなん
その きさらぎの もちづきの頃
訳①:願わくば桜の木の下で死にたいものだ。それは如月(旧暦3月)の望月(15日・満月)の頃
訳②:願わくば 桜の木の下で死にたいものだ。お釈迦さまが亡くなり仏になった日
訳③:出来ることであれば、桜咲き誇る都で、高貴な身分の人として亡くなって欲しかった。如月(瀧山寺住職)も その息子望月も
■松尾芭蕉は上山の地で
名月や麓の霞や田の曇り
訳①:山頂には名月(十五夜・望月)が輝いているが山は霞がかかっているし裾野にある田んぼも曇っている。
訳②:如月(瀧山寺住職)の息子が望月という名前で焼き討ちから逃げることは出来たが詳しい消息が分からない。
<この俳句の不思議>
この地域に田園は少なく、砂鉄の工場や砂金採取の河川敷が広がっているはず。さらに、曇っているのでは田園なのか河川敷なのか判明しないはず。
■浮上した如月の息子
瀧山寺住職の如月は高齢になるにつれて、免疫力も低下することから、らい病もひどくなっていったと思われる。
住職を引退し、近くに「庵」(自宅)を建て養生の生活に入ったのではないだろうか?
世話をする妻との間に生まれたのが 息子の「望月」と想定される。
しかし、病気がさらに悪化をする中で妻と息子を生活しやすい里(上山の方)に移し
別に生活していたのではないだろうか?
やがて如月(瀧山寺住職)にも死期が訪れ、美形で元気と知力をもって繁栄させた現世を去った。
瀧山寺住職の後任として、本山(京都嵯峨野にあった寺院)臨済宗の寺院に変わっている
に申請をしたのだろう。
そこで息子がいたことが判明し、父の如月の時と同様に殺害・暗殺の計画が貴族達によって計画されたのかもしれない。
父如月が亡くなって1年半程で、瀧山寺の焼き討ちは決行された。
■瀧山焼き討ちは、人々の治療に当たった多くの若い僧侶が患者と一緒に亡くなった。
「三百坊」と呼ばれる程多くの若い僧侶達。若くなければ山を自在に駆け巡り薬草を調達したり、患者を背負ったり運んだり出来ないだろうから若者達だったのではないかと思われる。熟年や老年の僧達は、それを支える役目を果たし寿命を全うしたのではないだろうか。
■そう考えると、殺害目的は住職如月(寂然)の息子である「望月」だったのだろうけれども、誰が息子なのか判らない状況と、源義経の動向に慌てて、山全体を焼き討ちしたのではなかったろうか?
しかし、
望月は生き延び、守られていたが病にむしばまれていた身体は治療出来ずに数年でなくなってしまった・・・・
■西行法師は、
瀧山焼き討ちの時に、息子の望月も亡くなったと思い、身辺を整理し死ぬ覚悟で、貴族の藤原俊成・藤原定家親子に抗議のために
『願わくは 花の下にて春しなん
その きさらぎ(住職如月)のもちづき(息子望月)の頃』
の歌を送り、評価して欲しいと依頼した。
■西行は瀧山焼き討ちから半年過ぎた旧暦3月16日頃に他界した。
如月の望月の頃に・・・没
忘れてほしくない・・・・そんな人々の思いが
隠された伝説として・・・西行の名が残ったのではないだろうか。
それが代表作とされるのは、隠された意味があったからではないだろうか。
そして、
普門寺は焼き討ちにあった「若い僧侶達」と「病で行き倒れてしまった望月」を弔った寺なのかもしれない・・・・
■ 瀧山寺住職の如月に息子はいたのか?
普門寺跡の佇まい、西行の歌、芭蕉の歌と紀行その後の寺院文書の消失から考察してみたが、如月(寂然)の和歌も参考になるのではないだろうか?
■寂然法師千人万首より
・秋はきぬ年もなかばに過ぎぬとや萩吹く風の驚かすらん(千載230)
・尋ねきて道わけわぶる人もあらじ幾重もつもれ庭の白雪(新古682)
・乱れずと終わり聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども(千載604)
・この春ぞ思ひはかえす桜花むなしき色にそめしこころを(千載1068)
・なにとなく涙の玉やこぼれけん峰の木の実をひろふ懐に(新続古今837)
・道のべの蛍ばかりをしるべにて独りぞ出づる夕闇の空(新古1951)
・吹く風に花橘やにほうらん昔おぼゆるけふの庭かな(新古1953)
・けふ過ぎぬ命もしかと驚かす入相の鐘の声ぞ悲しき(新古1955)
・そむかずはいずれの世にか巡りあひて思いけりとも人に知られん(新古1957)
・別れにしその面の恋しさに夢にも見え上山の端の月(新古1960)
・さらぬだにおもきがうえのさ夜衣わがつまならぬつまな重ねそ(新古1963)
・花のもと露のなさけは程もあらじ酔ひなすすめそ春の山風(新古1964)
都に届けられた「和歌」より、歌人の寂然としてみた時に悲しみや切なさがあり、そしてささやかな生活が感じられる。
普門寺の謎は少しとけたのかもしれないが、
心霊写真となって訴えかけている人達とは違うようで
次回に継続・・・・探索は奥深くに・・