歴史とはどんなものだろうと、
ウクライナに対するロシアの言動から感じられる。
もし、ロシアが勝利したとしたら1000年後にはロシアの言い分が歴史となって、多くの民が苦しんでいる状況は闇に消されてしまうのだろう。
このような勝利者による[歴史書の編纂]は日本でも行われてきたことを忘れてはいけないのではないだろうか?
今回は、『吾妻鏡』を検証した。
この歴史書に、
「北条時頼が、僧侶の姿で各地をまわり、瀧山が乱れ切っていたので閉山した」
との記載があるために、事実とされてきた。
この、「東鑑(吾妻鏡)」は勝者による正当性を伝える趣旨も含まれている事を忘れてはいけないのではないだろうか?
本当のことを知りたいと願うならば、勝者による歴史書以外の書物をも読み解き整合性を確かめる必要がある。
勝者側からの歴史書では搔き消されていた真実がほんの少しづつ見つけることが出来るのではないだろうか?
現在、ウクライナの情勢でもしロシアが勝者になったとしたら、ロシアは正当化のための歴史書を書き残すことだろう。その時、悲惨な市民の惨状は書かれないはず。
どのような公的歴史書も、歴史書を書くことで、政治を安定させるという目的があり作成されたものであることを、忘れてはいけないのではないだろうか?
しかし、
様々な書物等から、整合性のある真実の欠片を拾い集めてパズルのように並べていけば埋もれた歴史が見えてくる。
それは、考古学の土や砂利を掘り起こし遺跡を探求する姿勢と変わりない作業が必要になってくるのではないだろうか?
言い伝えられている事を未来に伝承していく既存の歴史から、
「何があったのか」
「なぜそうしなければならなかったのか」
を考え「多くの人間が共に暮らし社会を構築する時に生じる現象を知る」
それを検証しより良き未来の参考にすることが、歴史を知る意義ではないかと考える。
今のような自由な考えが出来る時代は第二次世界大戦後の事。
それまでの日本は、ロシア・中国・北朝鮮等と同様、君主のいる専制国家だった事を忘れてはいけない。
政権が変わる度に歴史書が編纂され、正当化し政治を安定させてきた政治グッズの要素
が公的な「歴史書」にはあるのではないだろうか?
わずかな真実をさがすために、
今回は、
そして、
既存の歴史である「北条時頼により瀧山が閉山となった」という通説。
はじめに・・・
北条時頼が瀧山に来たのか?・・・
と言っても長年にわたり言い伝えられて来た事、
「北条時頼が僧の姿で旅をして瀧山の僧が堕落した悪僧だったので閉山にした」を信じて疑わないのは当然のこと。
しかし、
昨今のようにインターネットによる検索が簡単に出来るようになった時代は少し冷静に物事を調べることが出来る様になったと思われる。
北条時頼は、11歳の頃から家督相続の渦の中にいたと思われる。↑
一族内の権力闘争に年月を過ごしていたのではないだろうか ?
執権に就任してからの3年間くらいも、一族の争いに奔走している。
壮年の北条時頼は、病気と自分の息子たちへの相続に時間を費やしている。
病気になり出家し、政界から引退してからも実権を握っていたが、後継者を定着させることに尽力す日々。
そして、37歳という若さで病死している。
家来や民衆に温情ある政策や対応をしていたので人気があり、その政治を評価されて、能楽で有名な「鉢の木」が物語られたのではないか?との説。
さらに、
忍性という僧を応援し鎌倉に招いて寺院を与えた。
今度は、その忍性をウィキペディアで検索してみよう。
北条時頼は、貧民救済と、らい病などの病人を救済していた僧の「忍性」を厚く支援し鎌倉幕府で高僧として取り立てた。
そのような慈悲深い北条時頼は、簡単に寺院を解体するだろうか?
泉元也さんが主演の「忍性」を題材にした映画がある。
このビデオを見たいと思っても見ることは出来ない。(瀧山のある地域?)
購入を幾多の方面に試みたが手に入れることは出来ない。
何故だろう?
・・・・・・・・
そして、
同じ様に貧民救済を行っていただろうと思われる瀧山寺及び300程の宿坊を
北条時頼が閉山したと言い切ることが出来るのだろうか?
救済に人生をかけた僧、忍性は、師匠である叡尊(えいそん)から「救済活動を大きくするな」と注意を受けていた。
忍性の後継者は無く・・・やがて救済活動は消滅していく。
北条時頼が瀧山を閉山したと公的な歴史書『吾妻鏡』に書いてあるから間違いないとの見解だが、
北条時頼の事柄を編纂するのは死後のことではないだろうか?
とすると、息子の北条時宗か孫にあたる人物かもしれない。
吾妻鏡は、
1180年頃~1266年頃までの
87年間の記録とされており、
源頼朝から三代と6代将軍の宗尊親王が京都に到着して将軍を辞するところで終わる。
■内容は、平氏滅亡→鎌倉幕府成立→北条執権政治→宮騒動→北条支配の確立。
編集者の姿勢にはかなり偏りがあり、源氏三代に対する評価は厳しい傾向があり、北条氏の活躍は強調される。この傾向は特に北条泰時に関する記述が著しい(Wikipedia)
■編纂した頃の北条氏は
皇族との婚姻を繰り返して、京の都と鎌倉に皇族がいる状況。
その時代に北条時頼の功績として「吾妻鏡」に収録されたのではないか?
と、現代の読む人は理解しなければならないのではないだろうか?
・北条時頼が瀧山寺を閉山したと書かなければならない事情があった。(???)
・そして、救済の僧、忍性も後継者は無く消滅していった。(???)
↓ ↓
■持明院とは、鎌倉幕府にいた日本の皇族。その一族を持明院派と称した。
鎌倉幕府の中に鎮守府将軍、藤原基頼が持仏堂を作り「持明院」とした。
■奈良から平安時代にかけて陸奥国に置かれた軍役所で鎌倉幕府に吸収された。
しかし、すべてが滅亡し、すべてに陰謀があった。
平氏(滅亡)→源氏三代鎌倉(滅亡)→北条氏(滅亡)
公家の滅亡が無い
<上記の探索から>
■北条時頼は旅をしていない(旅をする時間の余裕がない)
■北条時頼は病気で37歳で他界。親族の争いと後継者を決める事が人生の大綱。
■北条時頼は病気をしてから臨済宗の僧侶になった。鎌倉幕府の宗教は臨済宗。
■臨済宗に入りたての僧(時頼)が天台宗の寺院を閉山にすることは出来ないのでは?
■北条時頼は執権の立場。比叡山 や大覚寺に許可なく天台宗寺院を閉山出来るか?
■人民救済の僧を擁護して鎌倉に寺院を建立させた人物が寺院の閉山出来るか?
■親族を争いで殺害した苦しみで曹洞宗の開祖、道元を鎌倉に呼び話をしている。
その様な北条時頼が、良い僧侶・悪い僧侶など差別するだろうか?
■歴史書『吾妻鏡』の信ぴょう性(曲筆、明月記からの引用などがある)
当時の政権を担っていた北条氏にとって、曲筆、明月記からの引用しなければならない何かがあった。
北条時頼が地方に一人旅をして、松島・蔵王の瀧山・岩手の室根山にある天台宗(寺門派 最澄&空海)を乱れた寺院として閉山にした・・と記さなければならない当時の事情があったのではないだろうか?
編纂した人物とは?
その吾妻鏡を編纂した人物は、藤原利兼・二階堂行政・大江広元・三善康信らの朝廷に使えていた中・下級実務官僚が相次いで鎌倉に下り、後に政所となる公文所や、問注所の担い手となる。その中で五味文彦氏(歴史学者)は奥州合戦で軍奉行であった二階堂行政の筆録がベースと推定する。
五味文彦の研究と編纂者の推定
『吾妻鏡の方法』1989年著 『増補 吾妻鏡の方法』2000年著
■<1186年頃から1214年頃の編纂者>
意図的な顕彰→ 実務官僚(文筆家)→ 三善康信・三善康連・二階堂行光・大江広元 (二階堂氏は、奥州合戦の軍奉行。 大江氏は京の都官僚だった)
■<1222年頃の編纂者>
出産記事→得宗家嫡流・北条有時・北条政村・北条時輔・北条宗政・北条時兼
二階堂行定(二階堂行光の孫)
■<1295年頃の編纂者>
大江氏では長井宗秀が編纂の寄合衆に参加している。
■<1232年頃>
北条泰時が「所処に散在してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。
そして、
大江氏は瀧山が見える場所に居住していた。
■歴史書『吾妻鏡』は、公家、藤原定家が書いた『明月記』の引用や『金槐和歌集』からの引用が認められる。
■数百年を経過した現代、
安易に解釈し、
閉山された寺院は「悪僧だった」と、言い続けるのは残酷な事ではないだろうか・・・??
<余談>
ロシア政府が「自分の国土を守るためウクライナに軍隊を送った」と歴史書に記載するだろうが、それを読んだ後世の学者が「歴史書に書いてあるから真実だ」と決めたら・・・
検索をすすめて行くと、驚く事が判明してくる。
1000年も昔の事、
様々な論点は当然の事。
活発な議論は、新しい発見を見出し、やがて、真実は見えてくるもの。
大学教授・教育長・歴史学者・植物学者の諸先生方の見解が示されておられる。
様々な時代の研究者様達が、その時に入手出来る資料を基に最善の研究をされておられる状況に感銘を受けます。
その積み重ねた学問の功績を基に歴史の探索は進み、
時代も進み、
入手出来る諸本も多くなり、図書館やインターネットで入手する本も多く
電子書籍や、Wikipediaからの検索が可能になった時代。
歴史や和歌や疫病や地理に関する事などのブログや発信記事の発達により、一般市民でも探求することが安易になりました。
さらに、
交通の便も良くなり、気になる土地へ出かけ確認してくる事も安易な時代で新たな見方と検証が可能になりました。
<余談>
(一般市民の私が歴史と向き合う姿勢)
歴史の史実を並べる事に留まらず、
人間の生きてきた道として、
すべてを、否定せず、肯定しながら探求し、
限りある生命が幾千年も繋いできた「生命の頑張りと無常」を冷静に受け止め、
生存のための争いに敗れた不遇な先人をいたわり、
未来への僅かな教訓になれば良いと思うのです。
先日
同級生の伊藤さんから
大変貴重な話をお聞きした。
■伊藤さんの叔母さんは昔、瀧山を調べていたとの事。
・大変悲惨なことがあった。
・大変な賑わいがあった。
・1000人ほどの人が行列をつくっていた。
・それだけの信仰を集める誰かが居たのではないか?
・賑わったのは、ずっと昔の事(北条時頼が閉山したと言われる年代より前)
貴重な探求を引き継ぎ、
隠されてしまった真実に少しでも近づく努力をして行きたい。
そして、
隠されている事をひろい集めるために京都に行ってきた。
平安時代といえば、
しかし、その内情は平安な時代ではなかった?
■藤原氏同士の勢力争い。
■仏教のでは、最澄(天台宗山門派/比叡山延暦寺)と 空海(真言密教/高野山)
■そして二つの宗派が一つになった天台寺門派(圓城寺/三井寺)。
■異常気象による災害と飢餓と疫病と寒冷化、富士山の噴火。
一見して、
平穏で長い時代と勘違いしてしまいがちだが、
・都に住む貴族は権力闘争に尽力し、
・宗教は対立武装し、
・平民は飢餓に苦しんでいたのではないだろうか?
・疫病は貴族や平民を問わず蔓延。
その根底にあるのは異常気象、寒冷化と思われる。
我と一族を守るために他者から奪い生きのびる。(今も同じ?)
<余談>
人間は我と一族を守るために他者から食料や富を奪う武器をつくり、やがては地球も宇宙も崩壊させる運命を背負っているのかもしれない・・・
(この二人の存在がその後の歴史を綾なして行く)
孝献帝の末裔だった。
どうしても、天台宗最澄と真言密教空海を並べて考えてしまうけれども、
本来、並べて考えてはいけないのではないだろうか?
なぜなら、最澄とは、仏門に入る前の名前を、
「三津の首 広野(みつのおびと ひろの)」と言い、渡来人の血族。
また、ウィキペデアを検索してみよう。
■なぜ、大陸(唐)が日本を攻め滅ぼさなかったのか。
「大化の改新」を行い、
「官位十七条」を行い。(朝鮮半島や大陸からの多種の渡来人に官位を付け官職に登用)
同じ血族の国をアピールすることで平和を築くことが出来たとも考えられる。
■最澄を天台宗の祖として、国の宗教とすれば、大陸の唐としても満足のいくことではなかったかと思われる。
■東北の蝦夷征伐をおこなった田村麻呂も同族の帰化人(後漢の王族)↑
東北地方に住んでいた蝦夷とは背丈高く骨格も大きな別の民族だった可能性とされている。蝦夷の王アテルイを和睦の為と都に連れてきた坂上田村麻呂、それを騙し打ちにした桓武天皇も同族の血筋(後漢の王族の末裔)と想定される。
なぜなら、
■藤原氏
つまり、平安時代とは、朝鮮半島の王族から中国大陸の王族(血すじ)に権力が移っていったとの事ではないだろうか?
(詳細は長くなるので省略。別の機会に)
天台宗(最澄)
■その庭に咲いている、菊の花は天台宗の紋章となっている。
最澄が比叡山の山中で、木漏れ日に輝く除虫菊を見つけ、桓武天皇に国の紋章にしてはいかがかと話をしたとの記載が、伝教大師伝にある。
そして、天台宗の紋章も似たような紋章となっている↓
それが、日本にとって他国からの防衛になっていたのかもしれない。
しかし・・・・
それを証明する場所に出かけてきた。
嵯峨天皇と空海
大覚寺の裏にある 大沢池
大覚寺裏 ↓
■大沢池のほとりに、嵯峨天皇と空海との、親交の深さがうかがえる場所がある。
■ 望雲亭 ↓ 嵯峨天皇と空海が時間を過ごしたと言われる場所
この大沢池を散策しながら、嵯峨天皇の空海は、様々なことを語り合ったのだろうか?
嵯峨天皇はいつまでも見送っていたと言われる。
空海が建立したと言われる建造物。↓
空海が建立したと言われる建造物。↓
そして、歴史的に注目するべき建物と立て札を確認した。↓
■菅原道真を祀る天神社。
■二つの宗教を国の宗教としたのは「菅原道真」だった。
菅原道真は
国家安寧と興隆を天台宗(最澄)に期待。
衆生の救済を真言宗(空海)に期待。
・・・しかし・・・
公家も貴族も民衆も、密教という呪術や天文学的な占い様の魅力に魅かれていった。
宇宙や生命、地球に生きるための行動を説く学問の天台宗よりは、明日我が身に起きる不安材料を祈祷により排除するほうが現実的だったのかもしれない。
空海はどう考えたのだろうか。
■空海は「高貴な僧に呪術をかけて追い落した罰を受けて、らい病になり都を去っていった」そのような文章が数冊の書物に書いてある。
不遇の生涯を比叡山で送ることになったと記載がある。(読んだ本全部に)
その不遇の人生後半で
「一隅を照らすもの国の宝なり」の名言を残し、現代までもその精神は不滅の法灯と共に生きている。
(世の中の片隅で、名声や学歴などなくても、誰かの幸せのために行動する者は国の宝)
ともかく、
大覚寺はその本山であり、
菅原道真が提案し、責任者の一人となっていた。
■平安時代、大覚寺の所有地となっていた瀧山、西蔵王、上山の地には、大覚寺と同様の「天台宗寺門派」の寺院が建っていたと想像しては間違いなのだろうか?
跡地は今も、多くの国有林(地)となっている。
そしてまた、
■蔵王山お釜付近から宮城県側には、真言宗(空海)宗派の様子が見られる。
山形市の絵葉書より ↑ 蔵王山脈の中心に火山噴火による五色沼(お釜)がある。
■宮城県側から山頂まで、昔、47棟の真言宗の寺院があったと言われている。
■平安時代の高野山(真言宗)は嵯峨天皇と空海が亡くなった後、
落雷で寺院が焼失したりして衰退した。消えかかった程に荒廃した高野山。
平安中期に藤原道長が参拝に訪れてから、皇室や摂関家,公家の菩提を弔う場所として安定してきた。
■普門院との文字もある。
普門とは、どんな人にも仏教の門は開いているという意味・・との事。
それらの宗教が
蔵王連峰に集まっていたのではないだろうか?
■宮城県側の蔵王連峰に、平安時代は47棟の真言宗寺院があったと言われている。
■山頂は古代国家からの山岳信仰があり、
刈田神社は天皇が占いをする山の一つとなっていた。
■蔵王連峰は、様々な信仰の山々で成り立っており、
国家との関係が深い場所だったと考えられる。
参考とさせた頂いた資料(インターネット辞典より) ↓
■この資料から見られる重要なことは、
■刈田岳にある「刈田嶺神社」
・坂上田村麻呂が参拝 (801年)
・源頼義(前九年の役)戦勝祈願
・平泉の奥州藤原氏が尊宗
又、
・霊験があったとして従五位下の神位(844年)
・正五位下の神位に昇格(849年)
・従四位下の神位(869年)
この一連の昇格は、蝦夷経営を進める中央国家にとって、「刈田嶺神社」が宗教上及び政治上の拠点の一つであったことをうかがわせる。
と記していることにある。
藤原秀衡の時代には48坊の支院を擁するほど盛んだったと言われている。(ジャパンナレッジ オンライン辞書より)
(多数の寺院が集まっている蔵王連峰に奈良の大仏再建の寄付集めに西行が来たのではないだろうか?
そして、この土地こそ、寄付集めのために来た土地ではないだろうか?)
さらに、(源頼朝が征伐した欧州合戦の最大の戦地も宮城県蔵王山麓の麓。この土地)
瀧山も記載がある。(ジャパンナレッジ オンライン辞書)
■注目される事 ↑
1161年、学僧の信阿が『和漢朗詠集私注』を六卷、「瀧の山と申す寺」にて完成させている。
信阿が『和漢朗詠集』の私注を瀧山麓の龍山寺で著述したのならば、私注をかける程の関係書物が多数所蔵されていたのであり、それらを駆使して私注を著述出来る一級の文化人が僧侶の中にいたことになる。したがって、龍山寺(天台宗)は八宗兼学の寺院で学問僧が構成員の中心にあり、その下に瀧山を中心舞台に活躍する聖(修験・山伏など)が存在したのであろう。(ジャパンナレッジ オンライン辞書に記載)
オンライン辞書には上記の通り、「瀧山寺」と一級文化人の僧がいたと記している。
■蔵王連峰は古代国家にとって大切な聖なる山だったとしたら・・・
による史実の隠蔽は、日本の歴史にとって大変な損失になってしまうのではないだろうか?
そこまでして
歴史から抹殺したかったものは「一級文化人僧侶の血族」か?
それは、
有り得ない様な事が現実。
興味と時間がありましたらインターネット検索をぜひ。
つづく・・・