らい病や天然痘など細菌感染が蔓延していた時代の治療薬は自然由来の薬だった。
火山噴火により地表に現れた硫黄の殺菌力は強力で、蔵王から流れる川には魚も住まない。
赤茶けた石が転がっているだけ・・地球本体の殺菌作用なのではないだろうか?
自然の恵みの殺菌剤は都で蔓延している疫病の治療薬として樽につめられ舟ではこばれていった。
その舟着き場は「高野(コウヤ)」
そう・・きっと、
湯花の積荷と一緒に和歌の便りはこの地から舟ではこばれたのかもしれない。
今は硫黄がしみ込んだ川の小石がむき出しになっているが、
平安時代は舟が行きかうほどの水量があったとおもわれる。
その荷物が着いた場所は
京の都の嵯峨野 と想定される。
大覚寺とは
嵯峨野・・・
そこに出羽の国「大山荘」からの年貢は届けられていた。
嵐山の近く桂川の付近には貴族達の別荘が立ち並んでいたと思われる。
源氏物語の「松風の帖」からうかがい知れる。(現代では、船場有名料理店吉兆があった所の近隣)
都落ちとなり須磨に流された折に明石入道の娘を妻にして娘をもうけるが、光源氏
は都に戻される。そこで、明石御方と娘を都に呼び寄せた。桂川の上流にある山荘を住まいとして明石の御方は琴を弾きながら光源氏が訪ねてくるのを待っていた。
その、「松風の帖」を読むと、光源氏が嵯峨野に御堂を建て楽曲を楽しんだとの文章があることから、平安中期の嵯峨野桂川・大堰川付近は貴族等の屋敷が少なからずあったと思われる。(源氏物語は架空の話とされているが、モデルになった貴族がおり、大覚寺の山門近くにある「清凉寺」に住んでいた貴族と言われている。
嵯峨野=嵯峨天皇の領地
瀧山寺の住職 如月(寂然)のルーツを探してみた
手がかりは、やはり西行法師との和歌「西行生涯雑学研究」に見え隠れする断片を拾う
作業からでないと解明できない状況にある。
やはり・・・西行と寂然が
幼い日を過ごしたのは桂川沿いの貴族屋敷ではないかと思われる。
なぜなら、
寂然は藤原頼業(ふじはら の よりなり)と言う俗名で、
父(養父)は藤原為忠。
藤原為忠という貴族は
天皇家と深い関係のある家柄で財力もあり、
院に殿舎(建物)を造進(造って寄付)した程の家柄
とすれば一流の貴族ではないだろうか?
ここで育った幼少の時、西行と
竹馬などの遊びをしていたのかもしれない。
いや・・・もう一人・・・・
西住と呼ばれる人物もいた。
嵯峨野で幼馴染の3人の少年。 西行と西住と寂然
3人の共通点は 和歌
・寂然は 子供の頃から 出家
(子供の頃に出家は親の意向と思われる)
・西住は・・・・???
嵯峨野に住居があり、家族もいた?
(西行の和歌には、
自分よりも都の家族が恋しいのかとの意味の文がある・・・)
・西行の和歌からは、西住が年上であること、心から信頼している
親友であることが感じられるとすれば・・・貴族の様な立場?
貴族の家柄を持つ人物でなんらかの仕事をして生計をたてていた。
と解釈しても良いのではないだろうか?
旅をしながらする仕事?・・・そしてその旅の途中で死んだ・・
和歌の世界では「西行と行動を共にしていた」とあるが、高野山や
3人が親友ならば、西行と西住の二人で訪ねて来ても良いが
その痕跡が無い。
話を西行と寂然の交流に戻して
やがて青年になると、寂然は一人住まいをしている。もちろん、
食事や洗濯などをしてくれる下女や下男がいただろうと思われる。
西行との友情は変わりなく、美形の若い男子二人が並べば振り返る女人もいたのではないだろうか?
二人の若者は京の都を歩けば、女人が立ち止まる程の美形だったと伝えられている。
寂然は若い時に、親の意向により出家し、その後に同じく出家した2人の兄と共に、
和歌の世界では「大原三寂」・「常盤三寂」と呼ばれている。
ただ、
寂然の経歴は、何者かによって書き換えられた様な形跡がみられる。
尚、
年齢は宮中の歴史書を編纂するものでなければ正確な事は分からない。
当時は何年に生まれたかのか、何歳で亡くなったのか等、気にすることはなかった。
現代のように年齢を細かく気にする時代ではなかったと思われる。
もちろん、高齢化?後期高齢者?そのような言葉はなく、
食べる事が出来なくなったら亡くなった時代・・・
さらに、
平安時代は一人の人間が複数の名前を持っていても不思議でなかった。
西行(和歌のペンネーム)→佐藤義清(本来の名前)→円位(僧としての名)
寂然(和歌のペンネーム)→藤原頼業(本来の名前)→如月(僧としての名)
そして、名前は親や師匠や高僧から賜るものであった。
親からの一文字を入れたり、一族がわかるような一文字を入れたりするのが、
名前の定番であるとしたら、そこからの探索も必要な事と思われる。
青年時代の
寂然が西行、西住と交流していた土地
平安時代は田畑のある田舎の情景が広がっていたが、今は賑やかな町並み。
この常盤に藤原為忠(寂然の養父)の邸があり歌仲間が集まることがたびたびあった。と「聞書残集」に載っている。
為忠が常盤に為業待りけるに、西住、寂然まかりて、太秦にこもりたりけるに、
かくと申したりければ、まかりたりけり。
訳:為忠の遺邸に長男の為業が住んでいた時に、西住、寂然がやってきて、その時私は(西行)太秦(うずまさ)にこもっていたのだが、雅会を催すと言ったので、常盤にまいりました。
(西行生涯雑学の世界より)
やがて寂然と西行はそれぞれの地に向かって行く
しかし、故意か偶然か・・同じ様な地名に????
和歌の便りを交わし、交流が絶えるのは年老いて歩くのが大変になるまで続いた。
最後の手紙
西住が亡くなり失意の西行へ・・・・寂然より
とかくのわざ果てて、あとの事ども拾ひて高野へまいりてかえりたりけるに寂然入るさに拾うかたみも残りけり かへる山路の友はなみだか
訳:葬式のことやあれこれが終わって、遺骨を拾い高野山に納め
(それも終わって)帰った時に
高野山に入った時は(西行が)拾った形見の骨も残っていたでしょうが、
ただ涙だけだったのでしょうか?
(西行生涯雑学の世界より)
寂然も身体が衰え蔵王から船着き場の高野に手紙を頼みに来るのは大変なことになっていたのではないかと想像される。
もしかして、山中のどこかに野宿して手紙を出しに来なければならない状況だったのかもしれない。西行への手紙はこれが最後と言われている。
西行と西住と寂然を考える時
、私は友達を大切にしているだろうか?・・・
と・・・・思ってしまう・・・
話は・・・若い頃に再び帰って
寂然は
蔵王の瀧山寺と西蔵王に多くの「治療と祈願の宿坊」を指導しながら
自身も山頂で泊まり込みの患者を治療し、参拝客に祈願をする多忙な毎日を送っていたと思われる。
西行が30歳の頃訪ねて来た時はそのような寂然に
支援を考えたのではないだろうか?
墓を掘り、死体を集めだしたと言われている。
おどろく人々に、人造人間を作ろうとしたが、失敗した。
と言ってるが・・・・
本当は、らい病を治療するための方法を探していたのかもしれない。
なぜなら、
高野山の墓地にはらい病で亡くなった人が
多く埋葬されていたかもしれないのだ。
そして、不可解な西行の行動も
謎はまだまだ続く・・・