瀧山の仏教文化が花開いたその中に、内情を探るための僧が何者かによって送り込まれた。・・・やがてそれが年月をかけて瀧山寺の崩壊へ進んで行った。
その僧は都からやって来たと思われる。
都から瀧山の僧になるには、正当な寺院の紹介による身元の確かな者か、あるいは信頼できる知人友人からの依頼ではないだろうか?それは現代の会社就職でも同様だから。
とすると、
親友の西行からの依頼ではなかったのか?
30歳頃の西行法師に旅の資金を提供し、瀧山寺へ一人の僧を預かってもらえるように話をして欲しいと・・・・金持ちの誰かが頼んだとしたら・・・・
僧になったばかりの西行が東北の旅への資金を自力で準備することなど困難ではなかっただろうか?
誰か資金をだしてくれる人物がいればこそ、幼い時からの親友に合いに行く事が出来たのではないだろうか?
瀧山寺の住職 如月(寂然)は西行の申し出に疑いもなく了承したことだろう。
西行は役目を果たし、喜んで瀧山を下りて行った。
しばらくして、その僧は西行の口添えで瀧山寺の修行僧としてやって来たと思われる。
瀧山寺はその頃、大変な盛況で、西蔵王一帯に300件程の宿坊があり、蔵王温泉の名声と共に人々からの信仰を集めていたと思われる。
西行の口添えで瀧山寺の修行僧となった者は
何者だったのだろうか?
当時の賑わいの中にいた瀧山寺の住職如月(寂然)は全く疑うことはなかったと思われる。
多くの参拝者がおり、たくさんの農作物や金品が奉納されたと想像できる。
その、奉納された品々は修行僧に分けられ、生活の基礎となっていたのではないだろうか。さらに、身内に仕送りの様な形で届けられ豊かさの分配がなされていたのではないだろうか?
蔵王温泉(瀧山)と京都は楽に行き来が出来たのかもしれない。
その根拠が現在の温泉街に見る事が出来る。
須川神社の近くに「上の湯共同浴場」があるが、そこに掲示されている案内の文言がそれを示している。
さらに、
平安時代は荘園の時代。
この地域の荘園は「大山荘」と呼ばれ、上山全域・西蔵王~山形盆地の須川までの広範囲、北は立谷川に至るまでが「大山荘」となっていた。
上山郷土史研究家の高瀬陽吉氏が貴重な資料を「かみのやま昔雑記」に残して下さっている。
それを略図にしてみると
蔵王温泉から流れる硫黄の川は須川と呼ばれ川の石は赤茶けて「魚のいない川」と呼ばれている。
現代では、川といっても水量は少なく、舟で川を往来したなどといっても想像がつかないが、昭和初期に撮影した馬見ヶ崎川の古い写真をみると納得が出来る。
話は、瀧山寺にもどるが、
都(京都)には舟を利用すれば安易に行き来が出来たのではないだろうか?
商人や、荘園の者達は「紅花・蔵王の湯花(硫黄)」を積んで都(京都)を往復していたと想定出来ないだろうか?
僧達は修行として、あえて苦しい陸路を歩いたのかもしれない。
さらに、もう一つの謎が解明出来るのかもしれない。
「西行研究」の著書で、数書に出てくるのが「西行の幼友達で親友の寂然は高野山に住んでいた」
との文章が出てきて謎となっていたが、
蔵王温泉を下った権現堂という地名をさらに下ると、須川の川岸の地名が「高野と呼ばれている」。
古来、岩石から採取した「高価な石」を都(京都)に売りに行っていたとの言い伝えもある場所だ。
噴火のある蔵王の岩石から宝石のような高価な石が採取出来ても不思議はない。
飾りや神事に使われる高価な宝石が採取されたのかもしれない。
すると、貴族ではなく天皇家由来の荘園としても当然の様な気がしてくる。
往来する舟があるとすれば・・・
蔵王山ふもとの高野から、舟で西行のもとに寂然の手紙や和歌は届けられたのではないだろうか?
西行からの文や和歌も都(京都)から舟で日本海→最上川→馬見ヶ崎川→須川→高野(ここで舟を下り)→人足により蔵王温泉→瀧山寺
西行と寂然の友情は共に高齢になるまで続いていたと思われる。
かくして・・・
不本意にも、送り込まれてしまった謎の僧も、その舟のルートを使い、都(京都)に密書を送り続けたのではないだろうか。
官僧・・・・
官僧・・・簡単に言えば、
貴族や天皇など、移動がままならない殿上人の手足となる僧。
現代に当てはめれば「国家公務員的な僧侶」
国家的な祈祷に携わる代わりに、国家から給付を受ける事になっていた。又、
軍役など課役の免除、衣食住の保証、刑法上の特権などが付与されていた。刑法上の特権としては、官僧は、国家によって拷問をうけないという「刑部式」の規定があった。Wikipediaより
古代にあっては天皇が得度(僧になる)許可権を有していたので、天皇は、いつ誰を、どれだけの人数を僧侶にするかの決定権を握っていた。wikipedia注釈より
出家した者は,授戒を受ける事で正式な僧尼として認められた。
天皇が「官僧」を僧尼に任命するとしても、平安時代は貴族の藤原氏勢力が強大で、それぞれが自分の娘を天皇に差出して、次期天皇となる男子を産んでもらおうとしていた時代だった。
外祖父となり政治を操り身分と財力を得ようと競争の最中にあった。
平安末期は天皇が転々と変わり、上皇が政治をしたり、政権を奪い取り流刑にしたり暗殺したりと欲望渦巻く時代でもあった。
そんな情勢の中で官僧は単純に天皇が選んで任命することなどあったのだろうか?
言い寄る藤原貴族の誰かが推薦して(よきにはからえ・・)ではなかったのだろうか?
瀧山寺が・・なぜ・・彼らの目にとまったのか・・・
急速に繁栄を極めたから・・と昔からの言い伝えが耳に残っている。
さらに、
奈良仏教東大寺系の官僧にしてみれば、天台宗(最澄)も真言宗(空海)も、はやりの新興宗教に感じられたのではないだろうか?
些細な事が、幾多の命を奪う恨みの種をまいてしまう
どんな優秀な集団でも、年月が流れていくと、欲望という病に侵されてしまう。
現代の政治が解りやすい例かもしれない。
自分が老いて政治家引退すれば息子や娘に引き継がせようと躍起になる。
自分の地位を保持したいために何でもやる。
メディアは視聴率の高い番組を優先する。
崇高な人間の生き方を教える宗教でも、携わる人間の欲望で崩れていくのは仕方がないのかもしれない。
日本に仏教が伝わってから久しくなると、地位や欲に走る高僧が出る。
桓武天皇は若く正義感あふれる僧、最澄を見出し応援し仏教の最高位に着けたが、
その時、桓武天皇は【清廉な祈願】をする「天台宗」を国家の方針として、
従来の奈良仏教徒に(聖武天皇が【大仏】を造り国家を安定させようとした官僧達)
に天台宗を学ぶように言った・・・(屈辱ではなかったか?)
嵯峨天皇は密教【呪術的祈願】を最新の宗教として真言宗(空海)を重く用いた。
このように、
それぞれの天皇が統治をするのにあわせて、仏教は選ばれていった。
もちろん天皇が選ぶには側近の藤原貴族の後押しがあっただろうと思われる。
奈良の都が荒廃したのは人間の欲だけではなく、他の要素もあったと思われる。
たとえば、大仏を金色に仕上げるには国費がかさみ、寺院や貴族が富み、
労役や税で困窮する民との貧富の差が激しくなったこと。
さらに金色に仕上げる時に化学反応で水銀が流れ
市中に水銀が蔓延し中毒患者が多く出た等。
しかし、新しい天台宗の最澄を師とするように方向がなった時には
悔しさと恨みが起こっても止められなかったのではないだろうか?
「いつかはきっと盛り返す・・」
そんな思いがあっただろうと想像できるのは、
法然・親鸞・日蓮・栄西・道元 は皆「官僧」としての仕事をしていた。
そして、
誰もが知っている鎌倉時代の新仏教開花となった。
その根底には、奈良仏教の主な考えとなっている
≪仏教を日本に持ってきた「聖徳太子を崇拝」している。≫
奈良から始まった仏教を正当な仏教として・・・・巻き返し?
まだまだ・・・
官僧の理想は、歴史を綾なして、戦国時代も暗躍し、
やがて、徳川家康の江戸時代に、
官僧の理想は実現されたのではないだろうか。
寺の檀家制度や寺子屋など、仏教をもって国(国民)を統治する。
その理想・・・・・
しかし、今、瀧山寺を調べているのは、
患者を治そうと頑張っていた僧侶と患者が、
逃げ道が無いように山ごと焼き殺され数百人も犠牲になった。
そして誰もが口を閉ざし権力者にさからうこともしなかった。
残された石の鳥居が点在する中で・・・
心のよりどころとなる宗教が争いの種になるようなことが無いように
する方法はないのだろうか・・・
宗教の争いに瀧山寺は巻き込まれたのだろうか?
それもあるかもしれないが
いえ、
それだけではない・・
瀧山寺の住職 如月(寂然)の出生の秘密が・・・・