瀧山物語

埋もれた歴史を発掘することは未来に起こるかもしれない危険を回避する事にならないだろうか?

瀧山物語(悪僧と言われ続けて830年余り 前篇)

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長い歴史の中で、疫病(天然痘・らい病・ウイルス・感染症)との苦しい戦いを繰り返してきた。

奈良時代平安時代天然痘やらい病などの皮膚病が蔓延し感染者が貴族から平民まで身分に関係なく広がっていたと思われる。

医師の役割は僧達が担い薬草や温泉治療など自然界にあるものを用いて効能を試行していたと思われる。

 

しかし、増え続ける感染者に国家として・・・

 

瀧山寺以外にも「悪僧」と言い伝えられている寺社がある。

岩手県一関にある「室根山神社」にその痕跡があった。

※室根山神社

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室根山山頂近くに「室根山神社」がある。

美しい円錐形の山の山頂付近には昔々、寺があった。

その寺の僧達は行き所をなくした疫病患者(天然痘・らい病)を支援し

寺の傍に宿舎を建て、数十人を看病しながら生活をさせていた。

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     今は神社となって、静かにたたずんでいる。

     

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     訪れる参拝者の姿もまばらで地域の人々に大切に祀られている。

    

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石造りの大黒様が確認できるだろうか? 大黒様を日本に持ち込んだのは密教で、空海真言宗)と思われる。とすれば、貧民や病人を救済し土木工事を行った「行基の思想を継承していたのではないだろうか。そして「天台宗」だったと言い伝えがあるとすれば、瀧山寺と同じ「寺門派」天台宗と思われる。

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この積み上げた石が仏教文化の名残なのだろうか?

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ある日、何者かに疫病を患っている者も医僧たちも全員惨殺されて・・
瀧山寺と同様に

「性悪の悪僧が住んでいたので退治した」との作話を言い伝えとされてしまっている。

 

もうひとつの悪僧伝説・・・

松島湾

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遊覧船に乗ると観光案内のアナウンスが船内に流れる。

やさしく美しい声で案内されるがその中に

「悪僧達が用いた書物を燃やした島」との意味のアナウンスが流れる。

昔々あった寺は「松島寺」天台宗山門派( 比叡山 最澄 )

 

 

山形の瀧山寺岩手県一関の根室寺門派

 

圓城寺(えんじょうじ)通称 三井寺   

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宮城県松島寺山門派

 

比叡山(ひえいざん)↓

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平安時代 比叡山最澄・円仁)と 園城寺空海最澄円珍

対立していた。

 

対立の原因は権力抗争

比叡山は現代の 国立大学のようなもの。 天台宗の総本山・・・ 比叡山

園城寺は現代の 私立大学のようなもの。 天台宗寺門派の総本山・・滋賀

 

  円仁門徒と争った円珍門徒が993年独立した。

 

   <私立大学を国立大学にしたい>

                 <そうはさせたくない>

 

 

1035年3月7日:園城寺三尾明神の祭りに

            延暦寺僧徒が乱入

        1035年3月29日:園城寺僧徒が延暦寺明尊の山上坊舎を焼く

 

1038年10月27日:延暦寺僧徒は明尊が天台座主になるのに

            反対し入京奏上を出す。

1039年3月16日:延暦寺僧徒が高陽院に放火する。

           (高陽院・・桓武天皇の皇子邸)

1041年5月14日:園城寺戒壇設立について

           延暦寺が反対

            (戒壇設立・・国立大卒業証書発行)

1042年3月10日:延暦寺僧徒が円城寺円満院を焼く。

1048年8月11日:明尊を天台座主とする。延暦寺僧徒拒む。

1079年6月2日 :延暦寺僧徒1000人余り、八坂神社に強訴

 

        1081年4月15日:園城寺僧徒日吉神社の祭りを妨害。

1081年4月28日: 延暦寺僧徒、園城寺を襲い建物を焼く。

1081年9月14日:園城寺延暦寺の僧徒、園城寺にて争い逮捕される。

1093年8月6日:延暦寺僧徒、天台座主を襲う。

1095年10月24日:延暦寺僧徒、源義綱を強塑。

              源義綱が神人を射殺。

1100年6月8日:園城寺僧徒、同寺長史隆明の坊舎を焼く 。

1101年12月3日:延暦寺僧徒が闘争。

1102年5月7日:延暦寺僧徒が法成寺長史を強訴。

1104年3月  :延暦寺園城寺の争い激化する。

1105年1月日:延暦寺僧徒が園城寺僧證観を訴える。

1106年9月30日:延暦寺僧徒が藤原信長(故人)宅に行き乱行。

1108年4月1日:源平2氏に延暦寺園城寺の入京を防護させる。

1109年6月8日:延暦寺僧徒、清水寺別当を訴え蜂起する。

1111年11月16日:延暦寺の僧逮捕される。

1112年3月13日:延暦寺僧徒、八坂神社に行き強訴。

1114年7月6日:延暦寺山頂で兵仗を帯びる。(山頂で武装

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1121年5月27日:園城寺の僧徒が延暦寺の修学僧を殺した為、

           延暦寺僧徒房舎を焼く。

1121年閏5月2日:延暦寺僧徒が園城寺金堂を焼く。

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1133年7月21日:延暦寺西塔の学徒と中堂の僧が争う。

1138年4月29日:延暦寺の僧徒が神輿を担いで京に乱入。

1140年閏5月25日:延暦寺の僧徒が園城寺を焼く。

1142年3月16日:園城寺の僧徒が延暦寺を焼く。

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1150年9月16日:山徒の争闘を禁じる。

1160年10月12日:延暦寺僧徒、神輿を担いで入京し強訴。

1163年6月9日:延暦寺僧徒、園城寺房舎を焼く。

1164年10月5日:延暦寺僧徒、天台座主の房舎を焼く。

1165年8月9日:延暦寺僧、清水寺を焼く。

1169年12月23日:延暦寺僧徒が神輿を担いで権中納言を訴える。

1177年4月13日:延暦寺僧徒が日吉神社白山神社の神輿を担いで訴える。

1178年9月20日:延暦寺堂衆、群盗を集めて学徒と戦う。

1178年10月4日:法皇平清盛に命じ延暦寺の学徒をたすけ

           堂衆をを打たせる。

            (堂衆・・・下っ端の僧)

1179年7月25日:延暦寺の同衆を討たせる。

1180年12月11日:延暦寺園城寺が源氏についているので平氏これを討つ。

1189年12月14日:延暦寺衆徒ら天台座主を追放する。

 

まだまだ続き、

1330年6月22日 延暦寺僧徒建議し、一向宗徒の放逐と禁圧を要請。

   

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最澄空海も嘆き悲しんでいたのでは・・・・・

現代でも、

国会のうんざりするような派閥争いや不正行為、

世界規模の権力者たちのあくなき欲望、

刀を持ったり放火はしないけれど、

もっと陰湿で悪質な金と欲の世界が

今も存在しているように感じられる。

 

 

僧侶が武装するのはこの関係者だけで、

他の僧は人々を救済する使命に

心を熱くしていたと思われる。

 

 

この対立の余波で、「瀧山寺」と「室根神社」と「松島」

が悪僧と呼ばれる不運に見舞われたわけではないと思われる。

何故なら、

自分たちの争いで精一杯と 感じられるが・・・  

 

 

 そして、さらに、 比叡山園城寺の争いを

      陰であおり、仕組んでいる者がいたとしてら・・・

 

 その勢力こそ、注視しなければならないと思うのだが・・・ 

 

 

 

   後篇に続く

 

           

 

 

         

 

 

 

            

     

 

 

 

 

 

 

 

 

瀧山物語(西行の桜・・あふれる想いの大山桜・・)

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瀧山を眺める西蔵王の中腹に咲く大山桜。西行法師が植えた一本の桜木から長い年月を重ねて桜並木になって行った。

西蔵王の中腹に「三百坊」という名の蕎麦屋があります。おいしい蕎麦で山菜の天ぷらも近くの西蔵王で採りたての物を作って出してくれます。

その、「三百坊」そば屋の存在と由来が書いてある小さなパンフレットから、瀧山物語の探索が始まったと言ってもいいのかもしれません。それは下記の物です↓

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歴史的に見て、瀧山はどうだったのだろうか? 住職は流刑の僧だったのか?

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西行法師の歌が刻まれている。

西行法師が訪ねて来た僧とはどのような人物だったのだろうか?

西行は生涯で2回東国(東北)に旅をしている。

西行の生涯』を研究している某氏の貴重な資料から引用させて頂き、

歴史探索を進めてみたいと思う。

 

1118年 : 佐藤義清(のりきよ)生誕と言われている。

        父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経

        奥州藤原氏と先祖を同じくする。

1135年 : 18歳で成功によって兵衛尉に任じられる。

         ※成功とは官位を買う事。

         主家、大徳寺の関係で鳥羽院北面の武士になる。

1140年頃: 22歳か23歳の頃 出家

         僧としての名は 円位  ・歌人の名は 西行

1147年6月:30歳。陸奥の国に旅立つ(この年、源頼朝が生れる)

1148年  :平泉で東稲山の桜を見る。

1149年  :秋から冬の頃京都に戻る。

1149年  :西行32歳 高野山に入る

          『撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。

          、【鬼の、人の骨を取り集めて人に作りなす例、信ずべき人の

           おろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨を

           あみ連ねてつくりて侍りしは~

 

           要約:(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死体

              を集め並べて骨に 砒素(ひそう)という薬を塗り

              反魂の術を行い人を作ろうとした。・・・

              ・・・うまくいかなくて野原に捨ててしまった・・

 

1152年頃 :西行35歳 何度か遠くに修行の旅

          西住と行動を共にしていた。       

         (平清盛 厳島神社を修造)

 

1156年7月:西行39歳 崇徳上皇 讃岐に流される。

         崇徳上皇天皇)は西行法師の主家大徳寺ゆかりの

         人物でほぼ同じ年。

         崇徳天皇鳥羽天皇の息子だが本当は祖父白河天皇の子

         で、そこから歴史は難解な殺りくが繰り返されて

         いく事になる。


         さらに、佐藤義清(西行)が

         出家の原因の一要因となったのは崇徳上皇天皇)の母

         (鳥羽天皇中宮)と、一夜を共にし、

         それを見咎められて

         親族や子供に災いが掛かるのを防ぐために出家した

         との説がある。

1164年 :西行47歳  崇徳院 讃岐で没。(46歳)  

          崇徳院は何者かに襲撃され没した。

 

1167年 :西行50歳 平清盛太政大臣となる(50歳)

1168年冬:西行51歳 四国の旅に出る。

         ・崇徳天皇の慰霊・・・雨月物語

            恨みで怨霊となった崇徳天皇の霊を西行法師が

            慰める話 

 

        ・ 弘法大師の遺跡参り。

         「善通寺」あたりに

            西行弘法大師の地に向かい ある期間、

                庵を結んで住んでいた」と書かれている。

         そこは空海の父、善通の名をとって寺号とした

         とも言われ空海の先祖、佐伯氏の氏寺とも

         言われている。

         善通寺は75番の札所で、

         72番の曼荼羅寺には西行桜がある。

 

1171年:西行54歳 四国から戻り熊野にて修行。

1172年:西行55歳 親友で修業を共にしていた西住

        危篤との知らせで都に駆け戻り、看病し看取った。

        西住の死を悲しむ西行を気遣う歌を届けた

        寂然もその時、病の床に臥していた

        可能性が高い。

        この歌の後寂然の歌は現れない。

 

1180年:西行63歳 伊勢に住居を移す。

        平重衛の焼き打ちにより奈良東大寺大仏が焼失。

        重源は被害状況を視察に来た後白河法王の使者

        藤原行隆の推挙により

        再建のための勧進職に就いた。

 

1186年:西行69歳 陸奥の国に旅に出かける。

       奈良の大仏は当時、顔にだけ金箔が貼って、全身には

       資金が無く金箔を貼っていなかった。

       東大寺造営の勧進(資金集め)勧進上人の重源

       奥州藤原氏から

       砂金を寄付してもらうように西行に依頼してきた。

 

       重源は資金集めに苦慮し、協力の約束を違えれば、

       現世では「白らい黒らい」(重度の皮膚病:らい病・天然痘) 

       の身を受け、来世では「無間地獄」に落ちて脱出できない。

       等と恫喝的な文を残している。

      しかし、

      もう一つの理由があったと思われる。寂然の安否・・・

1186年8月15日:鶴岡八幡宮源頼朝と対面。

        義経を捕らえるための関所があったので「通行証」が

        必要だった。

        その時、流鏑馬(やぶさめの事を西行から

        聞き書き留めたものが

        現在の鎌倉祭りで行っている

        流鏑馬として伝えられている。

        ※この時期、関所を通りぬけた

         義経一行の話が勧進帳

              奈良の大仏修繕の寄付集め(勧進

              に各寺を回っていると・・

           そうして、義経を連れ関所を逃れた話。

        この、鎌倉幕府に滞在した時、源頼朝から

        銀の猫をもらったが、近くにいた子供にあげてしまった

        という逸話がある。

        当時、銀は高価なもので、大仏造営の目的で奥州に旅を

        しているという目的には反する行為となってしまう。

        

 

 

1187年:西行70歳 旅より帰る。

 

         京都嵯峨の庵に住み、

         旅より帰ってから、生涯の作品を整理しながら

         子供遊びを題材にした「たわぶれ歌」を読む。

         ※たわぶれ歌は私日記的なものと思われる。

 

 

         ・「竹馬を杖にもけふはたのむかな、

                童(わらわ)遊びを思ひでつつ」

 

            訳:幼い時の遊び道具の竹馬を、今日は杖として

             頼むみになってしまった、子供の頃の遊びが思い

             出されることよ。

         

 

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         ・「昔せし隠れ遊びになりなばや、

                片隅もとに寄り伏せりつつ」

 

                   訳:昔した隠れんぼをやりたいものだなぁ

                    今も子供たちは私達が子供の時にしたように、

                    あちらこちらの片隅に臥せてたくれているよ

             

 

       幼いころからの友人は・・・・寂然?

 

そして・・

 

  死が近いことの予感のもとに、

 

        当時の一流歌人である貴族の藤原俊成藤原定家

        自分の歌2首を提出し、どちらが良いか評価して欲しいと

        訊ねている。

      

      その一首の中に

 

 

       ねがわくは はなの下にて春しなん 

              そのきさらぎの もちづきのころ『山家集

         

         評価を依頼された当時の権力者 藤原俊成

           美しくない と 却下した。

 

 

        この西行の最後の行動のなかに、何か挑戦的な意気込みが

        感じられる。待ちに待った判定が藤原定家から届いた時の

        西行の喜び様には何かが感じられる。

                        西行生涯 日本の歴史より

1190年2月16日:西行73歳 河内の広川寺で、没す。

 

 

 

西行法師が、高齢の身体で奥州に一人旅をする理由は?

西行法師が、桜木を植樹する理由は?

 

特別な思いがあったのではないだろうか・・・・

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険しい山道を69歳の老僧が越える気持ち・・・

 

・東の方へ相識りたりける人の許へまかりけるに 

     小夜の中山見しことの昔になりけるを思ひでられて

 

 年たけてまたこゆべしと思いきや 命なりけりさやの中山

  

 

   訳:東国へ知人を訪ねていく時に 小夜の中山を越えたことが昔になったと思い起こされて

    こんなに年老いて この小夜の中山を再び子超える事が出来ると思っただろうか 

     それなのに今またこうして小夜の中山を越えようとは まことに命があるおかげであるよ

     

  

伊勢の地で安住の生活をしていた西行が老体を押してまで奥州まで出向かわなければならなかった理由についてはいろいろ考察されている。身分もない地位もない西行である。その西行が奥州を治めている権力者になぜ貢献を督促できるのか。

藤原秀衡源頼朝との覇権争いはまだ決着がついていない。

そんな穏やかならぬ土地へ七十にならんとする老僧が行けると思ったのか。

東大寺のトップ層にいた重源と権力構造の外側にいた西行とはどのような距離感あったのだろうか?           西行生涯 日本の歴史より

 

どうしても行かねばならぬ思い

どうしても会いたい人がいる

        そう考えてよいのではないだろうか?

 

しかし・・・

たどり着いたとき、会いたい人には会えなかった・・・・

 

 

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雪の降りしきる吹雪の寒い日に・・荼毘にふされて・・

もしかして、桜の苗木を供養として植樹したのかもしれない。

瀧山の山頂、「龍山寺」から見下ろせる場所に。

毎年春、花が咲いたら 西行がここにいるよと知らせるように。

 

桜の木は800年以上ここにある。

若い木は衰えていき。やがて、枯れていく。

桜の実は 地に落ちて やがて若い芽を出し育っていく。

幾年も、幾年も、繰り返し、桜の木は大きくなって増えて行く。

心優しい土地の人の手を借りながら続いてきた・・・

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幾世代も越えて咲き誇る大山桜

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瀧山寺の住職が 西行法師の幼少からの友人と仮定すれば

西行30歳の旅

最初の陸奥の国への旅は、奥州藤原氏の後に、瀧山寺に立ち寄り、

冬期間を蔵王で過ごして行ったのではないだろうか?

 

奥州平泉には10月に着いている記録があるから、

蔵王温泉・瀧山寺には11月に着き、雪が解けるまで過ごして

いたのではないだろうか?

 

 

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凍りつく瀧の流れを読んだ歌がある。西行を研究している専門家もどの場所だろうか?四国や高野山では該当する場所を探しきれないでいるようで、もしかしたら瀧山なのかもしれない。

 

・岩間せく木葉わけこし山水をつゆもらさぬは氷なりけり

 

・水上に水や氷をむすぶらんくるともみえぬ瀧の白糸

 

その他にも氷をよんだ歌は数多くある。

和歌には表面の意味とメッセージが重なっているものだが・・・

 

 

さらに、二人は好んで月を題材にした。

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二人で歌をよみあい、参拝者の為に読経し、蔵王の温泉に浸かり過ごしたのではないだろうか。

 

・常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる

 

  訳:いつもの年よりも心細く感じるなぁ 旅の空の下で年がくれていくよ

 

 

雪が解け、春の兆しが見え始めたころ・・・

西行法師は山を下りて、都へと帰って行く。

春が近づく気配を眺めながら、友人との別れを感じていたのではないだろうか

 

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瀧山寺から春めいた西蔵王を二人で眺めていたのかもしれない。



    お互い30歳の若い僧侶で歌人の二人は

            この雪解けの春風が今生の別れとなった。

 

 

しかし、遠く離れていても、和歌をしたため 行きかう人に届けてもらいながら

55歳頃まで交流は続いていたと思われる。

もう一人の友人、西住が亡くなった頃までは。

 

 

 ・・懐かしい思い出・・

 

貴重な 某氏の西行研究から・・

          西行の生涯を研究し、より正確な資料を残して下さった先生に感謝しながら)

 

 

 為忠が常盤に為業待りけるに、西行、寂然まかりて、太秦にこもりたるに、

かくと申したりければ、まかりたりけり。

有明と申す題を読みけるに

今宵こそ心のくまは知られぬれ、入らで明けぬる月をながめて

     要約:今宵こそ、本当に心の隅々まで知り合うことが出来た

        西の山に入らないで一晩中、夜の明けるまで明るく

        照っている有明の月をながめながら

        そうこうしているうちに静夜、寂昭らがやってきて

        話をしながら連歌になっていった。

        秋で肌寒いので(西行と寂然は)背中合わせになって連歌をつくり

        すごしたのでした。

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 さて、明けにければ、各々山寺へ帰りけるに、後会いつと知らずと

  申す題、寂然いだして詠みけるに

  帰りゆくもとどまる人も思ふらむ 又逢うことの定めなき世や(寂然)

         要約:帰って行く人も、ここにとどまる人のことも思っています。 

            又、いつの日、逢うことが出来るか定めない世でありますね 

 

 

 西行が出家して間もない頃の、若い僧達が過ごした様子。それぞれが修行の

 寺に戻り、厳しい修行の合間に和歌を詠んで交流していたと思われる。

 

 

 西行から

   入道寂然、大原に侍りけるに、高野よりつかはしける

   山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づき初むる櫨の立木

           入道  ごく親しい呼び名

            秋になって行く風景をつづった手紙様の和歌

 

返し寂然

  炭がまのたなびく煙一すじに 心ぼそきは大原の里

  なにとなく露ぞこぼるる秋の田に ひた引き鳴らす大原の里

           ひた  鳴子 田畑を荒らす鳥を追い払う物

 

 

 

 

西行法師は生涯、友達を守るために奔走していたのかもしれない。

 

 たぐいなき おもいではの桜かな

           うすくれなゐの 花のにほひは  

 

    

   ① 類のない 思い出羽 の桜かな少し赤い 花の香りは

 

 

   ②   何ものにも代えられない 思い出は 野桜(山桜)のように

      周りにある草木の中で少し赤く 香も強く 生涯でも忘れられない事だ

 

 

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 桜は平安時代、京の都に咲き誇っていた・・・・

 幼き頃は桜の花が咲き乱れる京の都で友と語らい過ごしていたのかもしれない・・

瀧山物語(月のごとく生きよ)

知らぬ間に、らい病に感染してしまった若い僧侶は「蔵王温泉(昔は高湯と呼ばれていた)」は蔵王温泉の西側にある小高い丘の「瀧山」に住職として赴任してきた。

彼は京都から徒歩で富士山を眺め白石(宮城県)を通り、羽前街道を歩き、宮城蔵王の方から登り、山脈を越えてたどり着いた。それが昔のメインルートのようだから。

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現在に残る羽前街道(宮城県蔵王町

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細い道が山形県に続いていたと思われる。

京都の面影がある「ひな人形」のような面立ちの

若い旅の僧侶は一人この道をあるいたのかもしれない。

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昔から、この道が使われていたことが書いてある。

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蔵王山脈を越えたところに、温泉治療でにぎわう場所があった。そこの小高い丘に赴任地の「瀧山寺」がる。そこは天空の離れ孤島のような別世界だったのではないだろうか。

彼は20代でこの地に着いて、1187年の早春に息を引き取ったので69歳位まで長生きできたのではないかと思われる。硫黄の強い蔵王温泉は彼に健康をもたらしてくれたのではないだろうか?しかし、最後はらい病が身体をむしばみ、庵で養生する生活をしていたと思われる。高齢になり温泉に浸かる事が困難になったころから病状が悪化してきたのかもしれない。現在のように良薬が無い時代だったから・・・

 

瀧山寺の住職は、瀧山全体を「祈りの山」として仏教文化の華を咲かせた人物。

今に伝わる「300坊」・・・300件程の宿坊があり、それぞれが医僧(病気を治す僧侶)達の精魂込めた治療をする場となっていた。

その宿坊を持つようになる僧侶達は、幼子の時に親から寺に預けられた子供達だった。

当時は子供を僧侶にするとその一家が仏に守られると信じていたために、様々な土地から幼子が集まってきた。

その為、幼子を育てる乳母がいて、「乳母神様」が祭られ元気に成長するようにな仕組みが寺社に出来ていた。

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老いた僧は畑を耕したり生活を支えていた

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幼子や面倒をみる女性もいて賑やかな空間もあったと思われる。

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子供達が元気に育ち、病気の人や困っている人達の手助けをすることが出来るようにと見守っていた。

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幼子達も大きくなり、水汲みや力仕事など生活の支えと、なりながら、仏の教えや医術を学んで大きく育っていった。

厳しい修行の結果、やがて僧侶としての名前を住職からもらい、宿坊を与えられると、教えられた事だけではなく、それぞれの工夫で特色のある宿坊が点在するようになった。

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患者は、病気が良くなって帰る時、米や野菜などの気持ちを供物として置いて行った。

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医僧達は数人ずつのグループで勉学し、救済に生涯を費やしてこの土地以外に出る事はなかった。食料も少なく1日2食で重労働しそれでも満足し日々を過ごしていた。

そうして瀧山寺(仏教文化)は西側の西蔵王の土地にまで広がって行った。

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参拝と治療を受ける事は近隣諸国に伝わり、多くの人々が集まってきて。西蔵王中腹に広がって行った。西蔵王からは、馬や荷馬車で蔵王温泉に入浴に行ったと思われる。

ひな人形の様な優しい顔立ちの住職は顔に包帯を巻いた姿で参拝者のためにお経を唱え幸いを祈願し、月のごとく穏やかで静かに職を全うしていたのではだろうか・・・

・・・・・・・・・・住職の名前は 如月 というのではないだろうか?

 

  西行の幼いころからの親友で歌人の・・・大原三寂と呼ばれていた兄弟の末子

  寂然ではないかと・・・・

 

瀧山物語(祈りの山。天候不順と疫病から救いを求めた奈良・平安時代)

■日本の古墳時代から奈良時代平安時代は地球規模の温度低下にみまわれ、農作物収穫量の低下と疫病によるパンデミックがあったのではないだろうか?(西暦400年~1192年頃)。

 

干ばつと長雨や豪雨は食糧難と貧困を生み出し、支配者達は年貢として取り立てる収入減を補うために戦をする。身内や仲間同士だったり、近隣への侵略だったり。民を兵としてかりたてる為に人口が減少していく。

 

しかし、日本だけではなかった。西洋史の中世前期はローマ帝国滅亡した暗黒の寒冷期と呼ばれている頃とつながるような感じがするのだ。

 

 ■ヨーロッパ中世前期(暗黒の寒冷期)西暦300年頃~700年頃

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瀧山物語(瀧山寺と温泉とらい病と)

人間の歴史は紀元前から疫病との戦いだった。

 

奈良時代平安時代も、天然痘らい病を患う人々が多かったと思われる。

さらに、日照りや長雨などの天候不順で不作が続き、道端で行き倒れて亡くなることも多かったと思われる。

奈良時代

705年  この年、大風、日照りのための飢饉と疫病の流行が二十か国に及ぶ。

      その後も飢饉と疫病は河内、摂津、出雲、安芸、讃岐、伊予にも広がり

      盗賊が横行し人民、真辛苦する。『続日本紀

 

737年  この年、天然痘が流行する。

      藤原房前藤原麻呂藤原武智麻呂藤原宇合

            天然痘に罹り相次いで死亡。

そのような社会の中で、身体を清潔にする余裕などは皆無ではなかっただろうか?

貴族達も入浴を常習する習慣は見られていない。

 

天然痘らい病は次々と伝染し、栄養不足の貧民から疫病の餌食となって行ったのではないだろうか?

貧民救済に頑張った僧達が感染してしまうのは残念なことではあるが、ある意味当然の事なのかもしてない。

空海らい病に感染してしまっていたとしても、彼の民を救済したいという行動から起きてしまった事でななかったろうか?

 

嵯峨天皇からの信頼を得て、順調で多忙な日々の時にらい病が発病してしまう。

らい病の潜伏期間は数年以上になる時もある事からいつ感染したかはきっと不明ではなかっただろうか。

記録にあるのは、病気悪化のために職を辞して高野山にいったとある。その後に

四国八十八霊場を巡り、病気平癒を祈願したとのことだが。

残念ながら病に勝つことは出来ずに亡くなってしまう。

 

その亡骸は、身辺の世話をした少数の僧により火葬された。

火葬にしたとの事は疫病(伝染病)であったことの証明になるのではないだろうか?

 

追跡したのは・・・

世話をした少数の身内同然の僧達だろうか?

患部の治療や包帯を交換したりした僧にらい病は感染しなかったのか?

その僧達はらい病の治療を経験してきており精通していたのではないだろうか?

そして、

その僧達は自分に感染しているかもしれないらい病の治療のために蔵王の温泉(高湯)に赴いて温泉治療はしなかっただろうか?

 

 

蔵王山は「不忘山(わすれじのやま)」と百人一首にも歌われており、さらに

最上川つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」『山家集

 

このように、歌に出てくる事を考えると

蔵王山はある程度の知名度があったのではないかと想像できる。

 

それは、

古来より蔵王山は、硫黄の温泉で、皮膚病・リウマチ・その他多くの病気に良く効くとされているため、

天然痘やらい病等の皮膚疾患や、戦いで負傷した人々、田畑仕事の腰痛などの湯治で賑わっていたのではないだろうか?

 

なぜ、都より遥か遠い出羽の地なのかと言えば、最上川という舟を利用した参拝ルートが安易だったこともあるが、都より近い草津温泉箱根温泉が安全に利用出来なかったからということも想定できる。

なぜなら、富士山の噴火が頻発していたからだ。

  <富士山の噴火>

  482年頃       旧暦3月~4月かけて噴火『走湯山縁起』

  781年        噴火  奈良時代

  800年3月から4月  延暦大噴火『日本後紀平安時代

  802年1月及び5月  噴火平安時代

  864年 6月     貞観大噴火『日本三代実録平安時代

  937年旧暦11月   噴火『日本紀略平安時代

 1015年頃       噴火平安時代

 1033年頃       噴火平安時代

 1083年頃       噴火平安時代

 1435年頃       噴火室町時代

 1511年        噴火室町時代

 1704年        鳴動 元禄時代

 1707年        宝永大噴火 江戸市中まで大量の火山灰降下

 

そのほかの硫黄温泉は九州の方になってしまう事から

蔵王温泉(高湯)は都に住む人達にも、貴重な温泉治療の場ではなかったかと想像できないだろうか。

 

 

草津温泉縁起を引用させて頂くと・・・・

源頼朝のもとに薬師如来の権化である童子が現れ、ほかの様々な病と共にらい病 を挙げ、この湯によって病苦から救われると告げたという。草津温泉から引用)

古来、草津温泉は「万病に吉」と謳われ(うたわれ)、多くの湯治客を迎え入れてきた。温泉の保温効果に加えて、草津温泉の強酸性泉による殺菌作用、成分に含まれる硫酸アルミニウムによる収斂作用、皮膚の刺激作用により切り傷から、ハンセン病、梅毒、皮膚病まで幅広い患者を受け入れてきた。(草津温泉WIkipedia)

 

草津温泉が湯治湯としてこれほどまで人気を集めたのは、霊泉の御利益が信仰を集めたからだ。湯畑の上手には薬師堂があり、薬師如来の足元から温泉が湧き出す位置関係にある・・・

この頃はハンセン病(らい病)患者向けの湯があったものの、特に一般客と混浴が禁止られることはなかった。いにしえの草津は病にかかわらず誰もが平等に薬師如来の加護を求める事が出来る信仰の場だったのである・・・・・

ハンセン病は当時、すでに医学的にはこの病気が感染症である事は明らかになっていたが、草津町では遺伝病と誤解されていた様だ。それくらい、この病気ほ感染力は低い。温泉街の宿屋で逗留する患者と寝食を共にしたにもかかわらず、宿屋業者の家族で一人としてハンセン病にかかった者はいなかったという・・・・

                        (ハンセン病と向き合う人々より引用)

 

  

蔵王温泉の効果も同様に皮膚病や万病に効くといわれ、硫黄の匂いが湯気と共に立ち込めている。平安時代蔵王山(高湯温泉)と瀧山の情景も、このような薬師如来を信仰し病気平癒を願う湯治客でにぎわっていたのではないかと推測出来ないだろうか?

 

では、

空海を看取った僧侶は?

空海弟子に「真然大徳(804~891)」がいる。空海の甥といわれている。

その真然大徳廟が894年・1131年・1640年と何度か掘り返され墓を造りかえれている。そして蔵骨器も何度かあけられたのか、中には火葬された骨が入っていたとの事。不思議なミステリーがある。

しかし、何者かが、真然大徳はらい病に感染していたのかどうかを確認したかったかもしれないとすればありえる話になるのではないだろうか?

 

真然大徳が蔵王山や瀧山に来たことがあったかどうかは、ここまでの調べでは不明だが、こののちに、京の都に住む、らい病を患った青年僧侶が自身の病気を住職に相談したところ「出羽の国にある瀧山に行くように」と告げられた。

その京にある寺院は天台宗最澄真言宗空海が共に仏道を探求した寺院だ。

 

 

大切な青年僧侶はやがて瀧山寺の住職になるべく京の都から出羽の国へ旅立つ

 

 

 

 

瀧山物語(瀧山寺は蔵王で温泉治療をしていたのかも?)

山形市街・上山市街から眺めると高くそびえる瀧山がある。その背後にはさらに高くそびえる山々の蔵王山脈が連なっている。

その「蔵王」という名前は珍しい呼び名ではないだろうか?

 

奈良県吉野町に「総本山金剛蔵王大権現」があり現在も信仰を集めている。

その、蔵王大権現を祀ったのは「役行者(えんのぎょうじや)」だ。役行者飛鳥時代の呪術者として知られている。大自然そのものを霊山として過酷な山岳修行を行い霊力を得ていたと思われる。

また、

西暦110年頃に発見された温泉は「高湯温泉」と呼ばれており、刈田峰神社がまつられていた。古くはこの山々を「不忘山(わすれじのやま)」と呼んでいたが文武天皇(697~707年)蔵王権現をこの地に奉還し名前も「蔵王山」と改めた。

 

平安時代の初めころから蔵王山蔵王大権現が仏教文化と共に知られるようになった。

 

山形の地には「行基菩薩の開祖」と言われる寺が多くあるが、

その「行基菩薩」の思考が瀧山寺に受け継がれているのではないかと思われる。

では、行基とはどのような僧なのか・・・

 

飛鳥~奈良時代、仏教は国家機関や朝廷が、僧や寺院の行動を規定し、民衆に仏教の普及は禁止されていた。

 

その禁止を破って、行基が、貧民救済病人を治療するための宿を造ったり

ため池水路を作り川の氾濫をおさえたり、

橋を造り川で流される子供や人々を助けた。

そうした行動に賛同する若者が小集団を形成し、

その集団形成は近畿地方から広がって行き、

やがて各地に行基菩薩開祖の社会事業が発生し困窮者を支援する寺が出て、僧は、地域の救済者としての役目をはたしていたと思われる。

<余談>

空海も若かりし時はその集団に属しており、その組織により最澄と同じように留学することが出来き、そして、密教を持ち帰ってきた。

 

としてみると、仏教文化が花開いたと言い伝えれられる「瀧山」も、温泉を利用した「治療院」のような役割を持っていたのではないかと思われないだろうか?

 

蔵王温泉の西の方向に見える山が瀧山だ。現在、スキージャンプ台のすぐ後ろに見える近い山並みが瀧山なのだ。

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蔵王温泉から見た瀧山

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崖崩れの上に瀧山寺があったと思われる。そこから若い層たちは患者を温泉に連れて来ていたのではないだろうか?

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山道は若い医僧達が交代で患者を背負って歩いたのではないだろうか?

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らい病や皮膚病の患者達、腰痛や様々な病気を治療するために温泉を利用し、治療をしていたのではないだろうか?

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治療のための専用の温泉も、自分達で造っていたのではないだろうか?

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温泉治療に加え、山中から効能のある薬草を採ってきて治療をしていたのではないだろうか?

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薬師如来に祈り、病気が治るようにひたすらそればかりを生き甲斐にしていたのではないだろうか?




何故なら・・・瀧山の僧達は、らい病の治療方法を知っていたからではないかと

思われる。

それは・・・空海はらい病を患い亡くなってしまったが、その手当をしたと思われる僧が長期滞在したことがあったのかもしれない様子が感じられるからだ・・・。

瀧山物語(奥州征伐の戦禍に消えた医僧達?)

地元の昔語りから聞こえるのは鎌倉幕府北条時頼が悪いことをしている寺と僧を閉山したという言葉だが・・・・

若くして病死した北条時頼が長旅をして出来る事ではないとしたら、いつ、瀧山寺は無くなったのだろうか?

 

■1189年7月~9月に「奥羽征伐」があった。

 

1189年4月30日、源義経が平泉の衣川で藤原泰衡の手にかかり自害した。その首を鎌倉幕府に送ったが、鎌倉幕府奥州藤原氏を討伐するとの兵を送り「奥州征伐」が始まった。

1189年7月~8月、戦場は 飯坂→国見→白石→蔵王町宮城県)四方峠。

27万騎の鎌倉軍と迎え撃つ奥州藤原軍17万騎の大きな戦いがあった。

藤原国衡は笹谷峠を越えて出羽(山形)に逃れようとしたところを柴田郡高山神社付近(大河原町)で打たれたと地元の記録にある。

       

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奥州合戦」激戦地

その時、瀧山も焼き打ちにあってしまったのではないだろうか?

 

軍兵が寺院を焼き打ちすることは、当時、稀な事ではなかった。

奈良の東大寺平清盛の兵により焼き打ちに合っている。

 

瀧山物語(悲劇の寺院、瀧山寺はどこにあったのか?)

瀧山登山は中級の山で人気があり、登山に訪れる人々が四季折々あります。

登山コースは3ルートがあります。

 

大瀧コース  → 難所がありチェーンを伝って登る難所があります。

         眺めが良く上山市が遥か下方向に広がっていきます。 

                               今は登山道が荒れて通行止めになっています。

                  

 

乳母神コース → 雑木林を登って行くと中腹に開けた眺め良い場所に着きます。

         そこに「乳母神」石仏が建っており、「乳母神」は山腹の

         谷間を見守っています。そこからさらに登って行くと急な斜面

         が出てきて、ロープを伝って登って行きます。

 

前滝コース  → 10年位前に大きな台風が来たときに倒木や崖崩れがあり、

         眺め良く、月山・鳥海山がみえるコースでした。

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うがい場

そこは、水神様が祭られた清らかな小川が流れているところです。

きっと、「飲み水やうがいも出来る様な場所」

との意味でそう呼ばれているのかもしれません。

 

その、「うがい場」に着く前に、

三百坊の「石の鳥居」をくぐって登山はスタートします。↓(平安時代のもの?)

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しばらく行くと間もなく、西蔵王放牧場になっている広場に

西行法師が植えた「大山桜」が見えてきます。

残念ながら現在(令和3年)では枯れてしまいました。

10年前の登山の時に撮った写真を掲載します。

桜が咲いている時期の終わった5月でも、切ないほどの美しさがあります。

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2009年5月撮影の大山桜の樹木(西行法師が植えた)

瀧山を少しずつ登って行きます。

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瀧山の山中

歴史のすべては樹木の中におおわれて・・・

出来事のすべては静寂の中にうずもれて・・

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乳母神のコースには乳母神が山腹におります。

「乳母神」を参拝しさらに登って行くとまもなく急な斜面が多くなります。

ロープやチェーンをつたって転倒に注意しながら登って行きます。

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この急な斜面が道なのです。

瀧山寺はいったいどこにあったのか?

このような急な登り道が寺院の参拝道だったとは・・ありえない。

前滝コース、大瀧コース、乳母神コース 共に同じような急斜面の道がある。

寺院に続く参道とは・・・やはりありえない。

 

しかし、

3つのコースが合流するところは山頂のすぐ近くにある。

そこには「瀧山神社」という小さな社(やしろ)がある。

昔は神仏合拝とすれば、そこが、まぼろしの寺「瀧山寺」があった

所ではないかと想定はできる。

やはり、

「三百坊」300件もの宿坊を繁栄させた、信者の参拝道が一つに集まる所が

信者の目的地と考えても良いのではないのだろうか?

 

この急な山道を登って参拝したのだろうか?

 

この山の

山頂に祭られているのは「薬師如来」だ!

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山頂にある「薬師如来」に尺八の音色が広がった。

やはり、瀧山の山頂付近が、まぼろしの寺「瀧山寺」があったところではなかったのだろうか?

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瀧山寺があったと想定される場所は山頂付近?

寺院は、一つの大きな寺院と幾つかの小さな寺が集合しているのが一般的な事を考えれば、

山頂に「瀧山寺」それを囲むように小さな寺があり、

中腹には300件もの宿坊がある。

 

夕方からは、山のあちらこちらでろうそく等のあかりが灯り、

まさしく山全体に宝石がちりばめられたように輝き

神秘的で美しかったのではないだろうか?

 

昔からの言い伝えでは、

「山中のろうそくの明かりが見えた・・・・」との事。

 

里に住む人々はそんな神秘的で美しい山を神として拝んでいたのだろうか?

そのような瀧山に何が起こったのだろうか?

 

 

 

瀧山物語(三百坊・・・300件程の宿坊があり賑わっていた)

三百坊・・・300件程の宿坊があり賑わっていたと想定される

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今は静かな自然がすべてを覆ってしまっている。

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蔵王放牧場を作った時、土の中から多くの生活用品が出てきた。

その中に、古銭も多く出土したことから、郷土史研究が始まったといっても良い。
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三百坊とは宿坊が300件程あった・・という事になる。
その宿坊を営む人は少なく見積もっても900人

(1件で3人、調理・布団や配膳掃除。

    報酬や賃金は無いだろうから家族単位かもしれない)
泊り客は一組から数組。人数では1人~5人位。

昔は徒歩が殆どと思われるから必ず参拝は数日の宿泊が必要だったと想定される。

では、1日どれ程の人数がこの地にいたのだろうか?

    宿の世話人     約3名 X300件 = 900人(おおよそ)

    旅人【参拝者)  平均3名 X300件 = 900人(おおよそ)

    茶屋、土産物店の人 約2名 X100件 = 200人(おおよそ)

    牛・馬の乗り物に携わる人        =  30人(おおよそ)

                      

                   合計    2030人(おおよそ)

 

このように考察してみると、一日 2000人以上の人々が行きかっていたと想定出来る。

 

宿坊の数からの想定では・・・

     牛に引かれて善光寺の 長野県善光寺宿坊の数は現在→39件位

     真言宗の寺院 和歌山県高野山の宿坊の数は現在 →52件位

現代は観光バスやツアー、外国人の参拝者が多いので

善光寺高野山等の参拝者数は比較するに及ばないが、

瀧山の細い山道をすれ違いながら途切れることなく歩く人の姿があったことが

想像される。

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賑わいの集落 三百坊があった・・・

 その賑わいのある仏教寺院はどこにあったのだろうか?・・・    

瀧山物語(北条時頼は瀧山に来ていない?)

鎌倉時代北条時頼が忍び旅で瀧山を訪れ、乱れた僧侶を見て閉山にした」

言い伝えは本当なのか?

 

北条時頼は(1227年~1263年) 36歳の生涯

     「吾妻鏡」(政府公認の歴史書)から

  1243年16歳の頃  左近将監

  1244年       従五位上に昇叙

  1246年3月23日  幕府の執権となる。

       5月     反北条氏(名越光時)鎮圧

       7月     宮騒動藤原頼経を京都に強制送還)

  1247年       相模守に転任

              宝治合戦三浦泰村一族を滅ぼす)

  1249年       評定衆の下に引付衆を設置(訴訟や政治の迅速化

  1251年       正五位下に昇叙

  1252年       宗尊親王を擁立(親王将軍の始まり)

  1254年10月    女子誕生        

  1256年3月     連署(補佐役)北条重時天然痘に罹り出家

       9月     時頼 天然痘に罹るが回復 

      10月     時頼の娘も天然痘に罹り他界(享年3歳)

      11月     時頼 赤痢に罹る 病気を理由に執権辞職し出家  

  1257年2月     時宗元服

  1257年夏      干ばつ 

  1258年       長雨・低温・暴風雨

  1259年       正壽・正元の飢饉  

              時宗の弟、宗政の元服

  1261年       子息の序列をつくる(正妻の子・その他)

  1263年11月8日  病気悪化(これ以前からの重病を推測『吾鏡』)

       11月19日 危篤

       11月22日 死去  享年37歳

                          (参考:Wikipedia

 

      上記のように北条時頼の足跡を考察してみると、東北地方に尋ねてきた

「東国廻国」との説は成立が難しいと思われる。

まして出家の口実は病気であり、当時の飢饉における貧民救済や相続の整備に当たっていたと考えるのが妥当と思われる。尚『吾妻鏡』には廻国は記載されていないとの説がある。

 

瀧山・松島延福寺・室根山天台宗寺院を襲撃し消滅させたのは

 

誰が?

理由と目的は?

いつの事なのか?

 

瀧山物語(歴史の闇に消された悲劇)

山の周辺には、昔むかしに作られたと思う石の鳥居が、市街地に点在している。

寺院があったといわれるが、登り口が沢山あったようだ。

どんな寺院があったのか痕跡もない。

ただ、年寄達からの言い伝えがある。

    鎌倉時代北条時頼が忍びの旅で訪れたときに、

    みだれた僧侶たちを見て閉山になった・・・

    寺院は山のふもとに移転した・・・・・・と

残されたのは「三百坊」という言葉

そして、西行法師が植樹したといわれる「桜の木」

            (今は枯れて・・古木が・・・牧場に残っている)

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中腹の雪が見えるところが西蔵王牧場で、そこに、西行法師植えた桜木が
又、周辺に三百もの宿坊があり、様々な店もあり人々でにぎわっていたとの事。

牧場を整備するときに、出土品があり古銭も見つかっている。

 瀧山を山頂まで登りきると、そこには蔵王温泉が広がっている。

 

山頂に瀧山神社が今も残っている。

その地の周辺にこそ、悲劇の寺院集落があっただろうと

私は想定している。

なぜ、だれが、何の理由で・・・・

昔の事は 仕方がない事だとしても・・・汚名だけは取り除いてあげたい・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

瀧山物語(そのはじめに・・)

歴史は本当の事だけが史書に残っているわけではないようですね。

数年前から「歴史のとんでもない謎」に挑戦しています。

私が調べた事が間違っているかもしれません。

ぜひ、ご助言をお願いします。

 

しらべているのは、平安時代末期から鎌倉時代の事です。

医僧と患者(らい病患者含む)が一晩のうちに焼き打ちされ亡くなった

と思われるのです。

 

誰が実行犯かはわかりましたが、奥が深く・・・・

 

ただ、思うのは、殺害されて「悪僧達だった」と現代まで「汚名」で呼ばれているのは切ないと感じるのです。真実を少しずつ解明し「汚名」だけはとってあげれないかと調べています。

 

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