瀧山物語

埋もれた歴史を発掘することは未来に起こるかもしれない危険を回避する事にならないだろうか?

瀧山物語(どうして私は殺害されたのか?・・・そう思うのは、今も昔も変わらないのではないだろうか)

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住民達と心ある僧侶達により寺は建立されていたのだろうか。そして、年月が過ぎて寺院は崩れ敷地には「立て札」と小さな地蔵堂。それを見守るような観音堂がある。観音堂を参拝する人々は「何かの寺があったんだ・・」と通り過ぎていく。


 

この探索の始まりは

郷土史研究会で毎年行われる「龍山登山」に参加した時のことだった。

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この世の中には解明出来ない事がまだある?

 

平成18年の集合写真に不思議なものが写り込んだ。

拡大してみると、黄色の布ようなものと、僧侶の顔だった。

なんだろうと思いながら・・・気にもせず。

 

・・・・・・・

 

 

■翌年の「龍山登山」で同じ場所での集合写真に

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写真全面にシャボン玉のようなものが写りこんだ。

 

 

 

それは、郷土史を研究する者への

「本当のことを調べて欲しい」

というメッセージと受け取れた。

 

 

検証を続け、探索の旅は続いているが、

知ってはいけない真実。

この世の中に、生きて存在してはいけないかった人物。

が・・いたことに辿りついた。

 

■1000年という年月が流れた今、

巻き込まれて命を亡くした人々は,

自分が殺された理由を知りたいと願っているのではないだろうか・・・・。

 

次々と驚くような歴史の隠された秘密が開かされていくなかでの、

「瀧山物語」は・・削除された歴史の扉にたどり着いた・・・

 

■その前に、これまでの事を振り返ると ↓

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赤い○は蔵王温泉神社からみた、瀧山寺や多くの宿坊があったと思われる場所

長い年月で山は崩れ、

にぎやかに参拝客が途切れることないような繁栄は想像もできない。

 

図面にしてみると↓

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山形市からみると勇壮な姿。その中腹西蔵王も三百坊と多くの賑わいがあった。

■瀧山寺は確かに存在したと思われる。

 

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山頂に、今も残る瀧山神社。

 

■その寺は、信仰と病やケガの治療も行っていた。

奈良時代の「行基菩薩」の意思を伝える空海弘法大師)を祖として、

病む人・貧民を救済していた。

 

その宗派は、天台宗の寺門派

 台州最澄)と真言宗空海)が混在した宗派

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天台宗最澄)の比叡山は、天皇や皇族の健康と国政の安寧を願い、現代に置き換えれば大学院や政治学者の研究所のような感じなのかもしれない。

国家公務員としての官僧は国と天皇のために祈りと用事の遂行をしていたと思われる。

 

真言宗空海は、貧民救済や橋・貯水池の建設等、民を救済した行基」の集団に若いころは属し活動していた。

 

その2つが合流したのが天台宗の寺門派

空海が唐より持ち帰った密教を、最澄が教えて欲しいと依頼したことが始まりの宗派。

 

 

 

その瀧山寺が焼き討ちで消滅してから167年位いの年月が過ぎた頃

裾野に2つの寺が出来たと思われる。

 

1⃣上桜田の地に瀧山寺(りゅうざんじ)

そして、

2⃣飯田の地に「普門寺」(ふもんじ)

 

 

現在の

1⃣上桜田の地に「瀧山神社」(りゅうざんじんじゃ)と瀧山寺(りゅうざんじ)

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桜田の地に移ってきたと思われる瀧山神社 ↑↓

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瀧山神社は雪から保護するためのシートが掛かっていた。↑

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瀧山神社の傍には、今も信者に守られている瀧山寺 ↑

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瀧山寺は天台宗の円仁(慈覚大師)と書いてある。↑

それらが建てられたのは鎌倉時代が過ぎた南北朝(1356年後)と思われる。

斯波兼頼(最上家の祖)が「出羽の国」の按察使(あんさつし)として山形に城を築いてからの事と思われる。

 

 

 

瀧山神社や瀧山寺に対して、

2⃣飯田の地にある「普門寺」は趣が違っている。

 

普門寺跡の向かい側に「弘法大師堂」がたたずんでいる。 ↓

そして観音堂が見守っている。

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小さな弘法大師堂が普門寺跡を見守るようにたたずんでいる。

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さらに、

弘法大師堂の後方に梵字を記した墓があることに気が付いた。

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 見守るようにたたずむ墓二つ

 

  小さいほうの墓に書かれてある文字は読み取ることが不可能だが、

大きな墓の方はかすかに頭にある梵字と下方にある文字は居士と読み取れる。

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弘法大師を祖とする真言宗派の名のある僧ではないだろうか?

墓が二つあるということは、

普門寺は少なくとも二人の真言宗派の僧が60年~80年間くらい居住して読経の生活を送っていたのではないだろうか?

 

 

疑問?二つの宗派が?

天台宗山門派天台宗寺門派が?) 現在の状況

 

 

現在の状況

 

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宗派の疑問平安時代にさかのぼると

(瀧山寺繁盛の頃)

 

 

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確かに、瀧山寺は寺門派で、

その繁栄や僧たちの生活行動を

天台宗山門派後白河法皇の官僧の臨済宗から偵察をされていた。

 

 

 

■瀧山寺が焼き討ちされた直後頃は・・ ↓

        

 

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天台宗山門派は何故か臨済宗に改宗され、臨済宗の寺院になっていた。

臨済宗禅宗は一番勢力のある宗教になった。

   

しかし、

鎌倉幕府滅亡後・・・・・ ↓

 

奥羽の地は、斯波家(最上家の祖先)の領土となり、

山寺は元の天台宗山門派に戻った。

 

それは、南北朝時代

という特徴があったからではないだろうか?

 

鎌倉時代は、源頼朝が「源氏」の血を引く将軍だったためか、北条氏となった鎌倉幕府も、京の都にいる皇族との血縁が結ばれていた。

それは、京の都で政治を行う天皇鎌倉幕府で政治を行う天皇が出来たということになる。やがてそれは、戦乱の種となり京の都で政治を行う天皇により、鎌倉幕府は滅ぼされた。

1333年「元弘の乱」で鎌倉幕府を討伐した後醍醐天皇は、京の都で天皇自らが政治を行う「親政」を開始したが失敗に終わった。(大覚寺派)

やがて、王権は分離し

南朝・・「大覚寺統」は奈良の吉野に追われた。

楠木正行新田義貞・北畠・菊池・の武将が味方

北朝・・「持明院統」は京の御所にはいった。

足利尊氏細川氏・畠山氏・斯波氏・の武将が味方

※斯波一族の縁者が奥州に来て出羽に分離し、最上家となった。

 

<余談>

南朝北朝の争いで朝廷は衰退し

勝者は武士の足利氏だった。そして室町幕府になっていく・・

 

このような時代に、瀧山寺・普門寺は建立されたのかもしれない。

 

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<大切な余談>

宗教は人間にとって大切な学問

宗教は政治や財力のあるスポンサーを必要とはするが、それは学者や研究者の集団(研究室や大学院)というべきものと思われる。

 

「人間はどう生きるべきものなのか」を物理学的に研究していたのではないかと想われる。

人間を分解すれば→肉→細胞→分子・原子→電子(エネルギー)となる。

は反発、は反発。 人間は巨大な電子の塊

 

巨大な電子の塊の人間が(動物も含め)

争い合うのは必然なのかもしれない。

似たような電子の数をもっていたなら)

 

いつの日か、人間は争い合い、

地球を壊す(爆発させる)事

も必然なのかもしれない。

そして宗教とは

太古の時代に地球の未来が予測され、危険を回避することが出来る様に「この地球で生きる方法」を教えていたのかもしれない。

又、それは神仏という光の中に在るものたちの手助けによってかもしれない。

有名な般若心経は「無」

(有るようで無い、無いようで有る)

 

般若心経を掘り下げていくと物理学の世界と宇宙に入っていく。そして空海曼荼羅可視光線を超えた光の部分に入っていく。

密教他者のエネルギーに侵入する。そして禅は自分の中のエネルギー(電子)の状態を確認するのではないだろうか。

これ程まで人間にとって大切な学問も、財力というスポンサーなしでは成り立たないことに苦悩と困難が出てくるのではないだろうか。

宗教が非常に大切な学問(物理学的にみた人間の状態=宇宙に存在するものとしての)だからこそ、国を治めるときに必要とされてきたのかもしれない。<余談終了>

 

 

■2⃣「普門寺」・・・

臨済宗天台宗に属することもなく、真言宗の色を残し、僧侶の墓が2つ残されていることはやはり、空海弘法大師)ゆかりの別格な寺ではないかと想像される。

しかし、

「瀧山寺」住職如月(寂然)を祀るには不自然・・

如月(寂然)は1987年の1月か2月頃に老衰でなくなっている。親友の西行法師と生きて会う事なく山頂付近で火葬されている。

すべてが灰になった山頂から遺骨を掘り出しこの地に埋葬したと考えるのは少し無理がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

時をかけて探索する方法をしてみると、大変興味深いことが見えてきた。

 

江戸時代(元禄)

松尾芭蕉奥の細道

隠密ではないかとの話もある旅の事。

 

元禄2年・1689年

西行法師没後500年記念として行った?

芭蕉と弟子の曾良が、

西行法師の足跡を訪ねるとの事で、「奥の細道」の俳諧旅が行われた。

 

 

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奥の細道松尾芭蕉は1689年(元禄2年)に、芭蕉が崇拝する西行の500回忌として奥州・北陸を旅したといわれている。

旅の終わりは1691年(元禄4年)の2年にわたる旅。

 

それから25年後

 

1716年~1736年の20年間にわたり、寺やお堂や記録が消失した観音寺院があった。

奥の細道紀行

隠密旅行だったとしての解釈を試みた。

江戸を出発し、白河の関を通過し、

 

■松島の俳句

・島々や千々に砕きて夏の海  芭蕉

 松島やああ松島や・・芭蕉の作品ではなく相模の国の田原坊の作品

砕け散って何もない景色で平穏

 

■一関の俳句

・このに牛も初音と鳴きつべし

の香にのっとり日の出る山路かな

 のどかな風景で何もない平穏

一関は菅原道真公の婦人の墓があるところ。

 

■平泉の俳句

・夏草や兵どもが夢のあと 

すべては昔の事で何もない平穏

源義経奥州藤原氏の館があったところ。

 

■山寺の俳句

・静かさや岩にしみいる蝉の声

静かな景色の中だけれども気がかりなことがある

平安末期に天台宗臨済宗に変わり、鎌倉時代が終わると、天台宗に戻った寺。

 

■上山にある俳句

・名月や麓の霞や田の曇り

名月(十五夜・望月)は明確だがその他は曖昧。

・木のもとに汁もなますも桜かな

桜(昔の事)がそのままになっている。

奥の細道」で立ち寄ったと明記のない場所。

蔵王温泉から採取する硫黄を運ぶ船着き場「高野」があるところ。

 

大石田(高野一栄宅に滞在中の俳句)

・五月雨を集めて涼し最上川

最上川の船着き場である場所。

船に乗れば上山まで往復もできる場所。

情報は歴史の川に流して平穏にしたほうが良い。

 

■酒田(寺島助亭に滞在時の俳句)

・暑き日を海に入れたり最上川芭蕉

・夕日頭に蛇のごとし最上川曾良

夜に曾良がなかなか眠れなかったと日記にある俳句

夕日のように過去を沈めて時に流す方法が必要と報告

そして

※ 鶴岡菅原道真の9番目の子供の子孫が住む土地。

※ 松尾芭蕉は京都の臨済宗寺院に到着し、墓石も臨済宗の寺院にある。

※ 旅の依頼も江戸にある臨済宗の寺院から?

※ 資金は豊かで各地で接待を受けている。

 

ちなみに

西行法師がみちのくを旅した順路は

白河の関→松島→瀧山蔵王→平泉→京都→高野山

松尾芭蕉の道順は

白河の関→松島→一関→平泉→鳴子尾花沢山寺最上川酒田北陸→京都

 

<余談>

松尾芭蕉曾良が旅した従路は、欧州合戦と、源義経が京都から落ち延びた順路といったほうが正確なのではないだろうか?

 

西行法師と松尾芭蕉

二人に共通する言語が出てくる。

名月十五夜・満月): 望月十五夜・満月) 

 

西行法師は

願わくは 花の下にて春しなん 

その きさらぎの もちづきの頃

 

訳①:願わくば桜の木の下で死にたいものだ。それは如月(旧暦3月)の望月(15日・満月)の頃

 

訳②:願わくば 桜の木の下で死にたいものだ。お釈迦さまが亡くなり仏になった日

 

訳③:出来ることであれば、桜咲き誇る都で、高貴な身分の人として亡くなって欲しかった。如月(瀧山寺住職)も その息子望月

 

 

松尾芭蕉は上山の地で

名月や麓の霞や田の曇り

 

訳①:山頂には名月(十五夜望月)が輝いているが山は霞がかかっているし裾野にある田んぼも曇っている。

 

訳②:如月(瀧山寺住職)の息子が望月という名前で焼き討ちから逃げることは出来たが詳しい消息が分からない。

 <この俳句の不思議>

 この地域に田園は少なく、砂鉄の工場や砂金採取の河川敷が広がっているはず。さらに、曇っているのでは田園なのか河川敷なのか判明しないはず。

 

■浮上した如月の息子

瀧山寺住職の如月は高齢になるにつれて、免疫力も低下することから、らい病もひどくなっていったと思われる。

住職を引退し、近くに「庵」(自宅)を建て養生の生活に入ったのではないだろうか?

世話をする妻との間に生まれたのが 息子の「望月」と想定される。

 

しかし、病気がさらに悪化をする中で妻と息子を生活しやすい里(上山の方)に移し

別に生活していたのではないだろうか?

やがて如月(瀧山寺住職)にも死期が訪れ、美形で元気と知力をもって繁栄させた現世を去った。

瀧山寺住職の後任として、本山(京都嵯峨野にあった寺院)臨済宗の寺院に変わっている

に申請をしたのだろう。

そこで息子がいたことが判明し、父の如月の時と同様に殺害・暗殺の計画が貴族達によって計画されたのかもしれない。

父如月が亡くなって1年半程で、瀧山寺の焼き討ちは決行された。

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母は不安を持ちながら育てたのかもしれない。瀧山焼き討ちの時助け出された。↑

 

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騒動が収まり世間が静かになったころ、母と別れて川の流れを利用し安全を確保できるところに移ることになったのだろう。↑                                         

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そこは、僧としての修行の場所か、農民として生きる場所かは不明だが、秘密裏に守られて生活していることには変わりはなかったのではないだろうか↑         

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しかし、父から受け継いだ病(らい病)が身体のどこかにあったのではないだろうか?治療することなく放置していれば病にむしばまれて行くのは必然の事。自分の余命が長くないことを感じた時に、別れてきた母と故郷の瀧山に帰ろうと決意したのではないだろうか ↑

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川の流れを遡れば瀧山に戻れると歩き続け、ようやく山に向かって野道を歩き始めた時に病んだ身体は限界に近づいていたのではないかと思われる。  ↑ 

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やがて、母に会うことも、瀧山にたどり着く願いも届かずに行き倒れて命を亡くしてしまったのではないだろうか。瀧山焼失から数年後と想定し年齢は15~16ではないだろうか。

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■瀧山焼き討ちは、人々の治療に当たった多くの若い僧侶が患者と一緒に亡くなった。
「三百坊」と呼ばれる程多くの若い僧侶達。若くなければ山を自在に駆け巡り薬草を調達したり、患者を背負ったり運んだり出来ないだろうから若者達だったのではないかと思われる。熟年や老年の僧達は、それを支える役目を果たし寿命を全うしたのではないだろうか。


■そう考えると、殺害目的は住職如月(寂然)の息子である「望月」だったのだろうけれども、誰が息子なのか判らない状況と、源義経の動向に慌てて、山全体を焼き討ちしたのではなかったろうか?

しかし、
望月は生き延び、守られていたが病にむしばまれていた身体は治療出来ずに数年でなくなってしまった・・・・

西行法師は、

瀧山焼き討ちの時に、息子の望月も亡くなったと思い、身辺を整理し死ぬ覚悟で、貴族の藤原俊成藤原定家親子に抗議のために

 

『願わくは 花の下にて春しなん 

その きさらぎ(住職如月)のもちづき(息子望月)の頃』

      

の歌を送り、評価して欲しいと依頼した。

 

西行は瀧山焼き討ちから半年過ぎた旧暦3月16日頃に他界した。

如月の望月の頃に・・・没

 

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忘れてほしくない・・・・そんな人々の思いが

隠された伝説として・・・西行の名が残ったのではないだろうか。

当時の歌人として西行は有名な人物ではなかったはず。

それが代表作とされるのは、隠された意味があったからではないだろうか。

 

そして、

普門寺は焼き討ちにあった「若い僧侶達」と「病で行き倒れてしまった望月」を弔った寺なのかもしれない・・・・

 

■ 瀧山寺住職の如月に息子はいたのか?

普門寺跡の佇まい西行の歌芭蕉の歌と紀行その後の寺院文書の消失から考察してみたが、如月(寂然)の和歌も参考になるのではないだろうか?

 

■寂然法師千人万首より

・秋はきぬ年もなかばに過ぎぬとや萩吹く風の驚かすらん(千載230)

・尋ねきて道わけわぶる人もあらじ幾重もつもれ庭の白雪(新古682)

・乱れずと終わり聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども(千載604)

・この春ぞ思ひはかえす桜花むなしき色にそめしこころを(千載1068)

・なにとなく涙の玉やこぼれけん峰の木の実をひろふ懐に(新続古今837)

・道のべの蛍ばかりをしるべにて独りぞ出づる夕闇の空(新古1951)

・吹く風に花橘やにほうらん昔おぼゆるけふの庭かな(新古1953)

・けふ過ぎぬ命もしかと驚かす入相の鐘の声ぞ悲しき(新古1955)

・そむかずはいずれの世にか巡りあひて思いけりとも人に知られん(新古1957)

・別れにしその面の恋しさに夢にも見え上山の端の月(新古1960)

・さらぬだにおもきがうえのさ夜衣わがつまならぬつまな重ねそ(新古1963)

・花のもと露のなさけは程もあらじ酔ひなすすめそ春の山風(新古1964)

都に届けられた「和歌」より、歌人の寂然としてみた時に悲しみや切なさがあり、そしてささやかな生活が感じられる。

 

 

普門寺の謎は少しとけたのかもしれないが、

心霊写真となって訴えかけている人達とは違うようで

 

次回に継続・・・・探索は奥深くに・・

 

 

 

瀧山物語(「蔵王」と「瀧山」のふもとから採掘された砂金で奈良の大仏は金箔を施された)(官位の後編)

 

 

知っている人はどれだけいるのだろうか?

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蔵王大和朝廷にとって大切な宝の山であり、王族の蔵 だったのかもしれない。
百済王の一族、善光は朝廷から百済王(くだらのこにしき)という姓氏を与えられ朝廷に使え、孫にあたる敬福(くだらのこにしき けいふく)が金脈を掘り当てその砂金で奈良の大仏に金箔を施した。(現在の宮城県遠田郡涌谷町付近)。その息子武鏡(くだらのこにしき ぶきょう)は出羽の守に任ぜられたこともあり蔵王周辺には縁のある人物。

 

500人以上の患者と医僧が焼き討ちされ歴史から抹殺された事件を調べていくうちに、さらに多くの事柄が少しずつ判明してきた。

 

平安時代より前、奈良時代の前、

大和時代と言われるときにはすでに多くの民が高度な文明の中で生活していたと思われる。

それは・・・

朝鮮半島三国時代とも重なり合う時代

 

中国大陸の「唐」と朝鮮統一をした「新羅」に滅ぼされた国「百済」の王族の

一部は日本の地で生活を営んで高度な文明を伝えていた(渡来人と呼ばれてる)

 

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↑ 百済の韓国ドラマ「ケベク」より。百済王宮の様子を想像できる。

 

 

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↑ 百済の王宮 韓国ドラマ[ケベク」より

 

しかして・・・

660年 百済は唐と新羅の軍に敗れ、滅亡した。

 

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↑ 王宮の様子 韓国ドラマ「ケベク」より

 

 

日本とかかわりのある・・・・

白村江の戦い

 

 

百済復興軍として日本(倭)も援軍を送ったが間に合わず、将軍ケベクは戦死した。

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白村江の戦い。韓国ドラマ 「ケベク」 より。

 

対戦

唐軍          日本軍(倭)

13,000   :     42,000

唐船舶       日本船舶(倭)

170以上  :       800余

新羅    百済 

不明            :       不明

 

 

日本(倭)の百済救援隊は

一回 →  661年5月

二回 →  662年3月

三回 →  663年8月28日

                       白村江の戦い 大敗

 

 

国が無くなるということ・・・


統一や侵略で他国が攻めてきて

営んできた生活がなくなる事・・・

 

 

 

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当時、朝鮮半島では権力争いのために皇子暗殺はあり得ることで、回避のため他国での養育があっても不思議ではなかったと思われる。


その皇子が成人した時には養育先から結婚相手を求め、その国との姻戚関係を受けて勢力を広げ絆を強固なものにしていったのかもしれない。

 

斉明天皇が自ら出兵した様子や、中大兄皇子(のちの天智天皇)の様子から、以前より百済と日本(倭)は血縁関係があったと想定しても不思議ではないのかもしれない?

 

 

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                                                              wikipediaより引用

                                                                                                                                  

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                     wikipediaより引用
                                                                                                                                   

 

白村江の敗戦後、

「倭」の国は唐の攻撃を回避するために

遣唐使を派遣し、

都も内陸(奈良や飛鳥)移転し

 

日本に名前を変えた。

 

 

 

 

朝鮮半島三国時代は「韓国ドラマ」で想像が出来る。

 

 

 

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「韓国ドラマ」の予告編等から

 

 

壮絶な権力争いに日本(倭)も関わっていたのが、大和・飛鳥時代

だったのではないだろうか?

 

東北地方の歴史に関心を持ってみると、

シルクロード経由で北海道や青森、秋田・山形・新潟から、背が高く体の大きな民族が海を渡り住んでいたような感覚になる。

山形県に伝承されている舞楽シルクロード伝来)。

蝦夷と呼ばれている民族。

そこに、朝鮮半島から海を渡ってきた民族。

つまりは、

多種の民族が小部落を形成し点在していたのではないだろうか?

 

 

あらためて年表を確認してみる。

  •  57年  : 倭国王後漢に遣使。
  • 100年頃 : 青銅器と鉄が同時に伝わる。
  • 107年 : 倭国王後漢に遣使
  • 189年 : 卑弥呼が倭の国の女王となる

 

古墳時代

  • 239年 ; 倭女王卑弥呼が魏に使いを送り金印紫綬を受け取る。
  • 243年:  卑弥呼が魏王に贈り物をする。
  • 266年 : 倭女王の壱与が晋に使いを送る。(壱与は朝鮮半島の地)

 

倭の国はどこにあったのか?

様々な意見があるが、島根県出雲にあったとの説がある。

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この頃までには戦いの記録はない。

 

  • 350年頃 大和朝廷の統一
  • 367年 : 百済の使者がくる。
  • 369年 : 朝鮮半島進出
  • 391年 : 倭(?)出兵百済新羅を破る。(北九州拠点?)
  • 400年:高句麗軍が南下し伽耶朝鮮半島にある日本領土)を攻撃
  • 404年:倭(?)軍が帯方軍に出兵高句麗軍と戦う。
  • 413年:倭(?)国が晋に貢物をする。

 

西暦350年頃からは

積極的に朝鮮半島の戦いに参加していることが年表で確認できる。

そして、白村江の戦いで大敗するまでは北九州が日本軍の拠点と思われる。

 

仮説として、

島根県出雲の地にある「倭国」と 

北九州大宰府にある「倭国大和朝廷」は別のものだったのではないか????

 

 

能の演題にある「土蜘蛛」などから想定されている。

桃太郎の鬼ヶ島退治・等等

退治という言葉で、古くからいた民族を征服して行ったのではないだろうか?

 

何故

蔵王や瀧山が

大和朝廷朝鮮半島の政治と関係があるのか?

 

郷土史の書籍を確認してみると・・・↓

作者:清野春樹氏 

制作:米沢日報デジタル・(株)置賜日報社

 

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  清野春樹氏は興味深く積極的な探求をされている。

 

 

 

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蔵王のふもと

上山市には、金瓶・金生・金谷 等の地名が点在していること。

上山市須川と呼ばれる蔵王から流れてくる川と最上川の支流が合流する場所がある。

古来より製鉄が行われていたのではないか?

                                                                        ( 山形歴史探訪3 より ↑ )

 

 

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赤さびの石が転がる蔵王川

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「山形歴史探訪3」をさらに読みすすめると・・・・↓

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天之水分神」を祭る神社が山形市上山市に多い。

 

 

蔵王半郷石高に刈田嶺神社

下宝沢に刈田嶺神社。そこには蔵王大権現を安置している。

落合の刈田神社には金山彦命を祀っている。

刈田のカルという言葉は古代朝鮮語で刃物や銅を表している。

 

 

そして、

金瓶の地名は多くの砂鉄(砂金)が取れたことが由来となっている。

 

この地域では金属精錬や加工が行われたのではないだろうか。

さらに、

この付近では「鏡」の姓の方が多く住む。

                        ( 山形歴史探訪3 より ↑ )

 

 

 

 

蔵王地区・上山地区は古代より

温泉も湧き出ており、

砂金や銅、鉄の採掘と加工の賑わいある地区だったのではないだろうか?

 

 

 

最初の黄金献上

百済王敬福(くだらのこにしき きょうふく)は

749年、朝廷に陸奥小田郡で産出した黄金900両を献上した。

 

聖武天皇は狂喜して東大寺大仏殿に行幸し、仏前に詔を捧げると共に、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。

この功労により敬福は従五位から従三位へ七階級特進した。

産金に貢献した他田舎人部常世・小田根成も十階以上昇進して外従五位下に叙せられた。

さらに、

年号は天平から天平感宝、次いで、天平勝宝と改められている。

歌人・大友家持は次のように黄金産出を寿ぐ。

 

すめろぎの 御世栄えんと 東なる みちのく山に 黄金花咲く

 

こののち、

10年余にわたって 

年間900両~1000両の金が

陸奥国司を介して朝廷に貢納されたとみられる。

 

百済王敬福

750年、河内国交野郡百済寺を建立し、一族の本拠地を移したと考えられている。

                                                                                               wikipediaより引用

 

 

 

貴重な黄金を運ぶためにも、交通網は整備されていた。

駅制・・伝制  

 

大宝律令」では、駅の設置は大路30里(約16km)ごとに一駅が原則。

駅家に置く 駅馬の数は、

  • 大路で20疋〈あし)
  • 中路で10疋〈あし)
  • 小路で 5疋〈あし)

駅馬を使者が利用するときは、駅鈴(えきれい)を携行する。駅使と呼ばれた。

位階により 駅鈴の剋(きざみ)が違い、位階が高ければ使用する駅馬も多かった。

 

政府専用 軍用道路でもあった。

道路幅は広く 大路では10m幅の直線道路だった。

( トンネルがあるかは不明・・・)

 

 

 

 

さらに、

清野春樹氏は

興味深く積極的な

探求をされている。

さらに「山形歴史探訪3」の内容を紹介すると ↓

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蔵王温泉の近く瀧山の山頂付近にあった龍山寺の追跡。

焼き討ちにあった瀧山寺をそのままにしておくのはしのびないとして、石行寺の住職、宗海は農民に生活の助けをしながら、

 

桜田の地に「瀧山寺」

飯田の地に「普門寺」を祀り

          

二寺を石行寺の末寺としておさめた。

               

  ( 山形歴史探訪3 より ↑ )

 

 

 

 石行寺=岩波にある天台宗の寺院

      最上三十三観音霊場の七番霊場

 

 

 

 

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飯田の地にある「普門寺」は飯田観音のそばにあり、

現在は標柱のみになってしまっている。

 

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飯田観音 
 毎年1月にどんと祭を行い周辺の住民が参拝に訪れている。

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由来も忘れ去られ、標柱が一本 観音堂のそばにたたずんでいる。

 

焼き討ちで、医僧と患者(らい病患者を含む)500人以上が殺害された「瀧山寺」。

心ある住職と地域の人にひっそりと供養されていたことに、少し心が軽くなったような思いがする。

 

 

そして、なんという偶然なんだろうか・・・・

 

同じ飯田の地に、「山形大学医学部付属病院」が建っており、普門寺の標柱がある観音堂の高台から日々、病院が見えている・・・・


それは、まったくの偶然にすぎない・・・・が

 

 

 

 

 

 

<余談>

 

金・銀・銅 や鉄 などの採掘は日本中に始まった。

北海道から九州まで

採掘が当たり前の仕事となり、「黄金の国」となっていった。

東北地方の鉱山 を Wikipeia に探してみた 

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つまり・・日本国中で金・銀・銅は採掘出来たことになる。

 

 

Wikipediaから引用 

 

 

 

瀧山物語(官位・身分という悲しく恐ろしいものに翻弄されて人は鬼になってしまうのか)

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位・身分という悲しく恐ろしいものに翻弄されて、我を忘れて戦い殺戮を繰り返し、ひたむきに生きている者をも巻き込んでしまったのか・・・・・誰よりも偉く、誰よりも豊かになりたいと願う気持や自分の立場を奪われまいとする不安が、人を残忍な行動に走らせるのだろうか? それとも妬む心が鬼の始まりとなってしまうのだろうか・・・・・・・

「高貴な血縁」という多くの源氏や藤原氏達が、さらなる勢力と優位な立場を求め、様々な場面で対立を繰り返していたのかもしれない。

 

 

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東北地方は昔、激しい戦いが続いていた。

奈良時代坂上田村麻呂が奥州の支配者だった阿弖流為アテルイ)を

和睦のために都に連れていき「だまし討ち」で殺害してから

東北地方(出羽・奥州)には

官人として、朝廷の役人や藤原・源氏が赴任するようになっていた。

 

余談:最澄天台宗)は幼いころにアテルイとの戦いで叔父が戦死して無常を感じ

貴族の息子だったにもかかわらず僧になることを決意した。伝教大師伝より)

それ程までに、都から軍兵として多くの人々が出兵し悲しむ人々が増えて

豊かな東北の地を欲しがっていたと思われる。

羅生門」(芥川龍之介)に出てくるような飢餓が都に蔓延していたのではないだろうか?

 

坂上田村麻呂が制圧し

朝廷が東北地方を手に入れてからしばらくして・・

 

前九年の役後三年の役

1051年~1062年 

1083年~1087年

平安時代に東北地方で長い戦いがあった。

 

前九年の役は、源頼義の奥州赴任から安倍氏滅亡までの戦い。

  

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前九年の役で有名な話は、

「阿久根川事件」

清和源氏源頼義陸奥守の任期が終わる(1056年)2月、阿久利川の湖畔に野営している時、「配下の官人が夜討ちにあって損害が出た」密使が来た(本当かどうか?)

 

さらに、

配下の官人の光貞は、「敵の安倍貞任が光貞の妹と結婚したいと申し込んだが

安倍氏のような身分の賎しい一族に妹はやれないと断ったので仕返しに違いない

源頼義に訴えた。

 

そのことにより、安倍氏と朝廷の戦いが再開し、長い戦いとなっていった。

 

朝廷側の兵力は10000人位。(源頼義軍は3000人位)

清原氏の援軍もあり、安倍氏は滅亡し戦いは終結した。

 

阿久利川事件は、

源頼義の謀略説や、反、安倍氏の在住官人の藤原光貞等の謀略

説がある。

 

一部の人間の感情で、どれほど多くの人間が命を落としたのだろう・・・・

 

成沢八幡神社蔵王成沢地区)

1057年 

源頼義の軍(長男の義家)が、「前九年の役」の時、

敵の安倍氏に戦勝するように祈願神社として

石清水八幡宮京都府)から分霊して建立した。

源義家八幡太郎義家の伝説がある人物)

 

瀧山(西蔵王)のふもと、成沢地区にたたずんでいる。

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菊池様寄贈の資料

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菊池様寄贈の資料

 

瀧山寺住職が生まれる60年くらい前。

石の鳥居が建立されたのは1109年の頃と判明しているとすれば、

瀧山寺住職が20歳頃に赴任してくる

10年前に建立されたことになる。

 

蔵王・瀧山の仏教文化前九年の役」が始まる以前から、人々の信仰を集めていたことになる。

 

1063年1月・・・源頼義は騒乱を収めた。

1063年3月・・・源頼義正四位下となった。

 

     

 

少し落ち着いた情勢の中、

今度は兄弟骨肉の争い

後三年の役」が勃発した!!

1083年~1087年

 

前九年の役」の後、

滅亡した安倍氏の代わりとなった清原氏

それぞれ母が違う3人の兄弟は

・・・・不仲だった。

 

それぞれが、

源氏や平氏天皇と同じ血縁)の血を引く女性との婚姻をもくろみ、

嫡流(リーダー)を争うようになった。

 

清和源氏の血縁女性との婚礼に招待された親族の吉彦秀武が、朱塗りの盆に砂金を盛って祝いの挨拶に出かけた時、

清原氏惣領の地位を継いだ清原真衛が、

見向きもせずに碁にふけっていたのに腹を立て、吉彦秀武砂金を庭にばらまいて帰宅した。

砂金を庭にまいた行為が傲慢だとして、清原真衛吉彦秀武に軍兵を差し向け、後三年の役が勃発した。

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清和源氏の血を受けた女性とは、京の都から来た女性ではなく、

源頼義が、

朝廷軍を引き連れて前九年の役の戦いに向かう途中に、

平宗基の娘と一夜を共にして生まれた娘との説が有力。

 

多くの人間が戦い・・死亡した・・・・

 

 

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朝廷は、鎮圧のために

清和源氏源義家(頼義の長男)

再び奥州に差し向けた。

 

朝廷軍は、清原清衛を擁護し、

勝戦した。

清原清衛はすべての清原氏旧領を手にいれ、そして、清原清衛

藤原清衛に改名し、奥州藤原氏となった。

安倍氏清原氏は滅亡した・・・)

      その後、100年程、奥州藤原氏の繁栄が続いた・・・

 

 

皇室の血を引く貴族昇格を目指し

「血縁戦略」が続けられていく世の中、

優位になるための婚姻を幾度もくりかえし、

敵方の婦人とも婚姻を繰り返し、

 

兄弟は多くの家臣や下僕に武器を持たせ、

多くの命を犠牲にして戦った・・・

官位と身分をもとめて・・

(学歴社会・資格者社会の現代人も同じような事。金持ちの家に生まれるか否かで人生が決まるのだから)

人は何かのために・・あがき続ける・・

 

 

戦いに「正当な意味」はあるのだろうか???

 

・・大勢の命を奪って終結した・・

 

 

 

瀧山が焼き討ちされ医曽達と患者達、500人以上が殺される120年ほど前

 

源義経奥州藤原氏に殺害される120年ほど前

 

奥州藤原氏が滅亡する奥州征伐(欧州合戦)の120年ほど前。

 

 

 

歴史は、まだ、断片的にしか語られていない・・・

真実を知ることは、大事なことではないだろうか?

東北地方には軍事用の道路があり「駅」が存在した。(古代の交通網)

そして、

 

蔵王・瀧山の裾野には、

渡来人による金・銀・鉄などを抽出加工する

古代の工業地帯があったのかもしれない。

そこでは刃物などの武器を製造していたのだろうか?

それは、知られたくない朝廷の秘密だったのだろうか・・・

 

後編に続く・・・

 

瀧山物語(木々の葉が色づくころに疫病退散で瀧山は焼かれた?)

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疫病は人間に寄生するもの、病人も治療するものも全てを焼き尽くすことで「疫病退散」としたのだろうか?

 

 

古来より、国家に蔓延する疫病や戦乱は「国の病」と考えれれていた。

国の病を治すために祈りがあり、火炎により焼き尽くし、国の病をおさめてきた。

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平安時代末期も、疫病としてのらい病や皮膚病が蔓延し貴族のなかにも感染は広がっていたと思われる。

宮廷の女官の中にもらい病にり患していた人はいたが、全身を覆う着物でかくされていたと思われる。記録にあるものとしては、「美福門院加賀」(藤原定家の母)・藤原隆信(美福門院加賀と寂聴の子)等。

 

焼き尽くす事で、疫病退散を図ったのだろうか?

今年、コロナ禍の終息を願うとして二月堂の「お水取り」の様子がテレビ放映となった。

 

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現代は、祈りと寺院の中だけで行われており、

その祈願によりコロナ禍は終息の方向に向かっている。

誠心誠意をもって祈願して下さる高僧に感謝の気持ちでテレビに見入っていたが、

 

 

昔はどうだっのだろうか?

この行事は

平安時代から受け継がれている行事とされている。

 

そして、有名な場面は二月堂全体に松明を灯し壮大な火災様をすることだ。

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火の粉を身に受けると御利益があるとして大勢いの信者や見物人でにぎわう行事となっている。

そして、清らかな水で清めるという儀式。

 

 

平安時代

蔓延し続ける疫病を終息させるために、

現代の様な治療薬やワクチンの開発等出来なかったため、

焼き尽くす事が仏教をもたらした中国大陸から伝承した

疫病退散の本流だったのかもしれない。

 

 

今回より以前に放映なった映像の中に、

修行僧が食事後、

残った飯をおにぎりにして庭に捨てるように歩いている姿があった。

「施餓鬼」?とかいう事で、鬼に食べ物を与える行為という事。

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「鬼」とは?

疫病に身体をむしばまれた人間?

国の多くの人民を救うために・・・・・・・

蔓延防止のために?

 

 

 

二月堂の炎の祭典「お水取り」の前に、

「用事!」と松明をもって伝達する

行為がある・・・・

 

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それは、やらなければならない事・・・・との意味

公的な意味も含まれる・・・・

多くの人民を疫病から救うために・・・・・・・・公的な事。

 

蔵王にある「瀧山寺」も、多くの人民を救うためとして

 

らい病患者と治療している医僧500人以上を

突然の焼き打ちで命うばったのだろうか?

 

大義名分」

という恐ろしい言葉

多くの人を納得させる言葉。

平安時代は、呪術や祈りの時代だったから、

聖徳太子がそうすべきと言っている」

祈願によって聖徳太子の霊があらわれ、

「国の病となっている疫病を退治せよ」・・・と言っている。

と・・・

 

 

祈願とは

それぞれが・・それぞれ立場で・・・それぞれの願いを

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世阿弥が作ったった能楽平安時代の物語も多く、

その物語には亡霊や神が頻回出てくる。

 

平安時代陰陽師の安部清明が有名なように

霊や怨霊、神の言葉に人々は動かされた時代でもあったと想定される。

恐れ、祟り、恐怖、

天皇の御殿に雷が落ち、死傷者が出たことで、

菅原道真の怨霊と騒動になったことは有名。

 

聖徳太子の霊の命令で、

瀧山を焼き打ちし皆殺しにすべきだと

誰かが言い、正当化されたのかもしれないが、

本当に聖徳太子の霊だったかどうかは・・・・?

 

ただ、それが大義名分となり、

焼き討ちすることが当然の事になったと思われる。

 

 

それは、

神や霊や仏様 同志の、

ネットワーク会議情報共有がないから悪い?

 

 

・・・瀧山寺では

 

蔵王温泉の治療でらい病や皮膚病等当時の疫病は

寛解(保菌はあるが病気は治った)になったと思われる。

何故なら、

治ったという成果があるからこそ、

人々は集まり繁栄したのではないだろうか?

多くの石の鳥居が建ち、温泉に湯治客も多く、

瀧山寺にも参拝者の列があったのではないだろうか?

 

何故、平安時代に皮膚病が疫病として蔓延したのかは、

入浴の習慣がなく、

入浴する日は 占いで、その日(入浴日)を決めていたからと思われる。

 

消毒作用のある温泉の成分で皮膚を清潔にすれば

容態は良くなっていったのではないだろうか?

 

薬草も、キク科の植物は身体に入れば毒素を取り除く事が出来るし、

センブリ・キハダ・ヨモギ・野菊・ドクダミ・オトギリ草・その他。

西蔵王や瀧山には多くの薬草があり、

すぐ薬草を採取する事が出来る環境だったと思われる。

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祈願が悪いわけではない・・・

宗教・神仏は人間にとって、大切な物

祈りというエネルギーは波動となり願いを叶えていくのではないだろうか?

 

人間は細胞からつくられ、

細胞は原子の集まりで、原子は電子の集まりで

+と-の電子が常に震える様なブラウン運動を行っている。

 

さらに細分化すれば素粒子という物質の集まりだ。

 

そして、体温があるという事は熱がある事で、

熱があるという事はエネルギーがあり

光を放っているという事。

光を放っているという事は光の波動があるという事。

 

人間は街のネオン管のようにそれぞれの光を放って輝く存在ではないだろうか?

 

個々に輝く存在同志が、

   欲望のために、互いを殺し合う。

やがて、

存在出来ている大地や自然(地球)を・・・いつかは破裂させ

全てを宇宙の塵にしてしまうかもしてない。

 

そうならないように、

人間の生き方を教えているのが宗教なのではないだろうか?

葬式の時に聞くお経の「般若心経」の内容は簡単にいえば、「無」

 

悲しみも、苦しみも、欲望も、楽しみも、

すべては自分の思いであり考え方であり「無」

時間さえも「無」

 (宗教家ではないので間違っているかもしれないが・・・・)

 

穏やかにあるがままに生きよ。

欲を出さないで生命を楽しく生きよ。

 

と教えているのかもしれないから・・・・。

地球を破壊させないために、

人間は優しさを学ぶ必要があるのかもしれない。

 

何故、

宗教が殺りくを是正し、お互いの宗教をつぶし合うのか?

 

宗教を伝える人間の欲望

宗教を利用し勢力拡大をしようとする人間の欲望

 

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誰が悪い・・

変だと思っても反論しない誰かが悪い・・・無関心の誰かが悪い・・・

自分の利益に利用する誰かが悪い・・・・止めなかった誰かが悪い・・・・

 

しっかりと本当の事を調べなかった誰かが・・・・悪い  

 

そう・・みんなが悪い

 

 

歴史は繰り返し・・・やがて・・・

地球は破壊され・・・

すべては「無」となるだろう

 

 

 

 

瀧山の焼き打ち殺りくを、全力で止めた人がいる。

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西行

 

「つよくひく 綱手とみせよ もがみ川 その稲舟のいかりをさめて」

訳:稲舟を強く引く手をご覧ください(私の切なるお願いをお聞き届け下さい)

  もがみ川をさかのぼる稲舟のいかりをおろして(最上川をさかのぼる怒りを治めてください)

 

 

それを受けて、

崇徳院

 

最上川 つなでひくとも いな舟の しばしが ほどは いかりおろさむ」

訳:最上川では上流にさかのぼる稲舟は皆で引っ張っている事だが

  その稲舟のいな(否)のように、しばらくはこのままでいよう。

  舟がいかりを下ろし動かないように。

  (最上川をさかのぼれと周囲は言うがしばらくはこのままでいよう)

 

 

そして

瀧山寺の住職 如月(寂然)の養父 藤原為忠

豊富な財力もあり、院に殿を寄進。

 1121年 二条堀河殿造進

 1123年 堀河第内堂造進

 1134年 三条烏丸御所造進・・・・ここが該当かも?

 

 

では、

瀧山寺の焼き打ちを勧めていた天皇の周囲とは何者か?

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源氏(げんじ・みなもとうじ)とは?何者?

源氏とは・・天皇と同じみなもと

 

源氏物語」や源頼朝、源氏の末裔など、名前がでてくるが

源氏が出来たのは、814年 嵯峨天皇の時

 

嵯峨天皇には49人程の皇子皇女がおり

その生活費が財政圧迫の原因となった為

臣籍降下し「源姓」を与えたのがはじまり。

 

後継者をのぞき、源氏に臣籍降下して貴族の高官となり政務をおこなった。

つまり現代で言えば、兄弟親族で固めた企業という状況。

 

皇女は臣下の藤原氏に嫁がせ、

政治は血族の者が行っていたということになるのだろうか?

そして、

その身内同士の主導権争いで数知れない戦いがあり

一般平民は命を落としたのだろうか?

しかし、

違うかもしれない。

 

たとえば、48人の臣籍降下された源氏が、平均3人の子共を産むとして、

2021年ー814年=1207年間

平均25歳で結婚し、平均3人の子供を産むとして、

1207年間÷25歳=48回 

パソコンにて計算すると 下記の様になる。

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2020年10月の日本の人口は 126,226,568人

2021年は人口減少しまだ統計は出来ていない。

 

つまり、日本人の全員?が天皇の血族となってしまっている?

 

なぜなら、嵯峨天皇の「源氏」だけでなく

     仁明天皇の「源氏」  

     文徳天皇の「源氏」

     清和天皇の「源氏」

     陽成天皇の「源氏」

     光孝天皇の「源氏」

     宇多天皇の「源氏」

     醍醐天皇の「源氏」

     村上天皇の「源氏」

     冷泉天皇の「源氏」

     花山天皇の「源氏」

     三条天皇の「源氏」

     後三条天皇の「源氏」

     後白河天皇の「源氏」

     順徳天皇の「源氏」

     後嵯峨天皇の「源氏」

     後草深天皇の「源氏」

     後醍醐天皇の「源氏」

     正親町天皇の「源氏」

 

    だから・・神国ニッポン などの言葉があるのだろうか? 

 

 

 

 瀧山襲撃は密偵の官僧が蔵王山を去った後から

 約40年間、襲撃の危機に合い、

 京の都では、必死に止めていたことになる。

 

 大義名分も掲げ、多くの密偵と探索や調査が行われ

 

 

 襲撃の機会を狙っていたと思われる

 

 

そこまでして、襲撃の標的となった訳

疫病。

もう一つは、瀧山寺の住職 如月(寂然)は

 嵯峨天皇を祖とした淳和天皇の息子で次期天皇と決まっていた

 皇太子恒寂親王

 息子だから、

 

 皇太子恒寂親王は、謀反の ぬれぎぬを着せられ、失脚させられた。

 その息子だから、

 源氏の集団に命を狙われていたのではないだろうか?

 

 生まれたときから命を狙われたために、

密かに、養子に出され、本人も素性を知らぬ間に仏門にはいって

穏やかに人生を過ごすつもりが、らい病治療との事で有名になり

源氏たちの不安をあおってしまったのかもしれない。

 

つまり、「大覚寺」の初代住職が、本当の父。

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藤原為忠に預けられた、秘密の幼子は

紫野と呼ばれる 

桜や紅葉など自然がきれいな、桜木の多い場所で

幼友達の西行西住と一緒に育ったのではないだろうか?

 

その姿を、陰ながら、大覚寺より見守った 実父がいたのではないだろうか?

 

その、奥深くにあるのは、

紫式部の書いた「源氏物語」の隠された意味を

解いて 行く必要がでてきた。

 

瀧山物語(平安時代の疫病の治療薬として蔵王温泉の湯花は京の都に届けられた)

らい病や天然痘など細菌感染が蔓延していた時代の治療薬は自然由来の薬だった。

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白い沈殿物が蔵王温泉の湯花。瀧山寺の医僧たちはそれを活用し治療にあたっていたと思われる。   

火山噴火により地表に現れた硫黄の殺菌力は強力で、蔵王から流れる川には魚も住まない。

赤茶けた石が転がっているだけ・・地球本体の殺菌作用なのではないだろうか? 

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蔵王温泉の下湯共同浴場の傍に湯花と呼ばれる白い沈殿物はある。汲み取り自由?

自然の恵みの殺菌剤は都で蔓延している疫病の治療薬として樽につめられ舟ではこばれていった。

その舟着き場は「高野(コウヤ)」

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蔵王温泉のふもと、上山市の高野地区から西行法師への和歌(便り)は届けられていた?

            

そう・・きっと、

湯花の積荷と一緒に和歌の便りはこの地から舟ではこばれたのかもしれない。             

今は硫黄がしみ込んだ川の小石がむき出しになっているが、             

平安時代は舟が行きかうほどの水量があったとおもわれる。 

 

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向こう岸に建物が見えるが、その付近のどこかに、鉱山から採取した翡翠(ヒスイなどの宝石の原石を京の都に届ける商業施設か年貢を集める施設があったと思われる。     

その宝石の原石も同じ様に舟で運ばれたのかもしれない。               

もちろん紅花も・・・   

その荷物が着いた場所は

 京の都の嵯峨野 と想定される。

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嵯峨野 大堰川(おおいがわ)

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平安時代 貴族達が川遊び等を行う行楽地だった。

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赤い丸で囲まれたあたりが貴族達の屋敷があったと思われる。

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なぜなら、出羽 大山荘の荘園の持ち主は
嵯峨天皇御所大覚寺  
鎌倉時代末まで)との事。               
           
                  

大覚寺とは

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大覚寺・・時代劇のロケにも使われている所。

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大覚寺中庭から

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嵯峨野・・・

そこに出羽の国「大山荘」からの年貢は届けられていた。

 



                               
嵐山の近く桂川の付近には貴族達の別荘が立ち並んでいたと思われる。

源氏物語の「松風の帖」からうかがい知れる。(現代では、船場有名料理店吉兆があった所の近隣)

<余談>:源氏物語の「松風の帖」は光源氏が31歳の頃の話。

都落ちとなり須磨に流された折に明石入道の娘を妻にして娘をもうけるが、光源氏

は都に戻される。そこで、明石御方と娘を都に呼び寄せた。桂川の上流にある山荘を住まいとして明石の御方は琴を弾きながら光源氏が訪ねてくるのを待っていた。

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その、「松風の帖」を読むと、光源氏が嵯峨野に御堂を建て楽曲を楽しんだとの文章があることから、平安中期の嵯峨野桂川大堰川付近は貴族等の屋敷が少なからずあったと思われる。(源氏物語は架空の話とされているが、モデルになった貴族がおり、大覚寺の山門近くにある「清凉寺」に住んでいた貴族と言われている。

 

嵯峨野=嵯峨天皇の領地

  嵐山・桂川・常盤・太秦 

 

瀧山寺の住職 如月(寂然)のルーツを探してみた

 

手がかりは、やはり西行法師との和歌「西行生涯雑学研究」に見え隠れする断片を拾う

作業からでないと解明できない状況にある。

 

やはり・・・西行と寂然が      


幼い日を過ごしたのは桂川沿いの貴族屋敷ではないかと思われる。  

     
なぜなら、

寂然は藤原頼業(ふじはら の よりなり)と言う俗名で、              
父(養父)は藤原為忠。  

藤原為忠という貴族は                             
天皇家と深い関係のある家柄で財力もあり、

院に殿舎(建物)を造進(造って寄付)した程の家柄

とすれば一流の貴族ではないだろうか? 

 

ここで育った幼少の時、西行

竹馬などの遊びをしていたのかもしれない。

いや・・・もう一人・・・・

 

西住と呼ばれる人物もいた。

 

嵯峨野で幼馴染の3人の少年。 西行西住寂然

3人の共通点は 和歌

 

寂然は 子供の頃から 出家 

         (子供の頃に出家は親の意向と思われる)

西行は・・・・北面の武士で23歳の頃に 出家 

西住は・・・・???

        嵯峨野に住居があり、家族もいた?

       (西行の和歌には、

        自分よりも都の家族が恋しいのかとの意味の文がある・・・)

        ・西行の和歌からは、西住が年上であること、心から信頼している

         親友であることが感じられるとすれば・・・貴族の様な立場?

 

         貴族の家柄を持つ人物でなんらかの仕事をして生計をたてていた。

         と解釈しても良いのではないだろうか?

         旅をしながらする仕事?・・・そしてその旅の途中で死んだ・・

         

         和歌の世界では「西行と行動を共にしていた」とあるが、高野山

         吉野の蔵王堂の西行に同居していた痕跡が見つからない。

 

         その不思議は、蔵王瀧山寺西蔵に西住の痕跡が無い事。

         3人が親友ならば、西行と西住の二人で訪ねて来ても良いが

         その痕跡が無い。

 

 

 

話を西行と寂然の交流に戻して        

 

やがて青年になると、寂然は一人住まいをしている。もちろん、

食事や洗濯などをしてくれる下女や下男がいただろうと思われる。

 

西行との友情は変わりなく、美形の若い男子二人が並べば振り返る女人もいたのではないだろうか?

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寂然〈藤原頼業(ふじはら の よりなり)〉と 西行〈佐藤義清(さとう の のりきよ)〉

二人の若者は京の都を歩けば、女人が立ち止まる程の美形だったと伝えられている。

 

寂然は若い時に、親の意向により出家し、その後に同じく出家した2人の兄と共に、

和歌の世界では「大原三寂」・「常盤三寂」と呼ばれている。

ただ、

寂然の経歴は、何者かによって書き換えられた様な形跡がみられる。

尚、

年齢は宮中の歴史書を編纂するものでなければ正確な事は分からない。

 

当時は何年に生まれたかのか、何歳で亡くなったのか等、気にすることはなかった。

現代のように年齢を細かく気にする時代ではなかったと思われる。

もちろん、高齢化?後期高齢者?そのような言葉はなく、

食べる事が出来なくなったら亡くなった時代・・・

 

さらに、

平安時代は一人の人間が複数の名前を持っていても不思議でなかった。

 

西行(和歌のペンネーム)佐藤義清(本来の名前)円位(僧としての名)

 

寂然(和歌のペンネーム)藤原頼業(本来の名前)如月(僧としての名)

 

そして、名前は親や師匠や高僧から賜るものであった。

 

親からの一文字を入れたり、一族がわかるような一文字を入れたりするのが、

名前の定番であるとしたら、そこからの探索も必要な事と思われる。

 

青年時代の

寂然が西行、西住と交流していた土地

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平安時代は田畑のある田舎の情景が広がっていたが、今は賑やかな町並み。

この常盤に藤原為忠(寂然の養父)の邸があり歌仲間が集まることがたびたびあった。と「聞書残集」に載っている。

 

為忠が常盤に為業待りけるに、西住、寂然まかりて、太秦にこもりたりけるに、

かくと申したりければ、まかりたりけり。

訳:為忠の遺邸に長男の為業が住んでいた時に、西住寂然がやってきて、その時私は(西行太秦(うずまさ)にこもっていたのだが、雅会を催すと言ったので、常盤にまいりました。

西行生涯雑学の世界より)

 

やがて寂然と西行はそれぞれの地に向かって行く

かし、故意か偶然か・・同じ様な地名に????

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西行吉野山蔵王・・・西住は嵯峨野?・・・寂然は蔵王山の瀧山寺

和歌の便りを交わし、交流が絶えるのは年老いて歩くのが大変になるまで続いた。

最後の手紙

西住が亡くなり失意の西行へ・・・・寂然より

かくのわざ果てて、あとの事ども拾ひて高野へまいりてかえりたりけるに寂然入るさに拾うかたみも残りけり かへる山路の友はなみだか

訳:葬式のことやあれこれが終わって、遺骨を拾い高野山に納め

  (それも終わって)帰った時に

  高野山に入った時は(西行が)拾った形見の骨も残っていたでしょうが、

  納骨を終えて高野山から帰る途中の(西行の)山道は、

  ただ涙だけだったのでしょうか?

西行生涯雑学の世界より)

 

 

寂然も身体が衰え蔵王から船着き場の高野に手紙を頼みに来るのは大変なことになっていたのではないかと想像される。

もしかして、山中のどこかに野宿して手紙を出しに来なければならない状況だったのかもしれない。西行への手紙はこれが最後と言われている。

 

西行と西住と寂然を考える時

、私は友達を大切にしているだろうか?・・・

と・・・・思ってしまう・・・

 

話は・・・若い頃に再び帰って

寂然は

蔵王の瀧山寺と西蔵王に多くの「治療と祈願の宿坊」を指導しながら

自身も山頂で泊まり込みの患者を治療し、参拝客に祈願をする多忙な毎日を送っていたと思われる。

西行が30歳の頃訪ねて来た時はそのような寂然に

支援を考えたのではないだろうか?

 

西行高野山に行き、

墓を掘り、死体を集めだしたと言われている。

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墓を掘りかえす西行

おどろく人々に、人造人間を作ろうとしたが、失敗した。

と言ってるが・・・・

 

本当は、らい病を治療するための方法を探していたのかもしれない。

なぜなら、

高野山の墓地にはらい病で亡くなった人が

多く埋葬されていたかもしれないのだ。

 

そして、不可解な西行の行動も

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大覚寺を訪ねる 西行

 

謎はまだまだ続く・・・

瀧山物語(悪僧と言われ続けて830年余り。その陰に密偵の僧がいた。 後篇)

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瀧山の仏教文化が花開いたその中に、内情を探るための僧が何者かによって送り込まれた。・・・やがてそれが年月をかけて瀧山寺の崩壊へ進んで行った。

その僧は都からやって来たと思われる。

都から瀧山の僧になるには、正当な寺院の紹介による身元の確かな者か、あるいは信頼できる知人友人からの依頼ではないだろうか?それは現代の会社就職でも同様だから。

とすると、

親友の西行からの依頼ではなかったのか?

30歳頃の西行法師に旅の資金を提供し、瀧山寺へ一人の僧を預かってもらえるように話をして欲しいと・・・・金持ちの誰かが頼んだとしたら・・・・

僧になったばかりの西行が東北の旅への資金を自力で準備することなど困難ではなかっただろうか?

誰か資金をだしてくれる人物がいればこそ、幼い時からの親友に合いに行く事が出来たのではないだろうか?

瀧山寺の住職 如月(寂然)は西行の申し出に疑いもなく了承したことだろう。

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つもる話の中、依頼された僧の話も出て、如月は軽く引き受けたのではないだろうか

西行は役目を果たし、喜んで瀧山を下りて行った。

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しばらくして、その僧は西行の口添えで瀧山寺の修行僧としてやって来たと思われる。

瀧山寺はその頃、大変な盛況で、西蔵王一帯に300件程の宿坊があり、蔵王温泉の名声と共に人々からの信仰を集めていたと思われる。

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蔵王温泉街の中頃に古い温泉街の図が掲げてある。その様子から古い昔の蔵王温泉と周辺の賑わいが感じられる。昔々平安時代の頃はどうだったのだろうか・・

 西行の口添えで瀧山寺の修行僧となった者は

何者だったのだろうか?

当時の賑わいの中にいた瀧山寺の住職如月(寂然)は全く疑うことはなかったと思われる。

多くの参拝者がおり、たくさんの農作物や金品が奉納されたと想像できる。

その、奉納された品々は修行僧に分けられ、生活の基礎となっていたのではないだろうか。さらに、身内に仕送りの様な形で届けられ豊かさの分配がなされていたのではないだろうか?

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蔵王温泉(瀧山)と京都は楽に行き来が出来たのかもしれない。

その根拠が現在の温泉街に見る事が出来る。

須川神社の近くに「上の湯共同浴場」があるが、そこに掲示されている案内の文言がそれを示している。

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さらに、

平安時代は荘園の時代。

この地域の荘園は「大山荘」と呼ばれ、上山全域・西蔵王~山形盆地の須川までの広範囲、北は立谷川に至るまでが「大山荘」となっていた。

上山郷土史研究家の高瀬陽吉氏が貴重な資料を「かみのやま昔雑記」に残して下さっている。

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それを略図にしてみると

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蔵王温泉から流れる硫黄の川は須川と呼ばれ川の石は赤茶けて「魚のいない川」と呼ばれている。
現代では、川といっても水量は少なく、舟で川を往来したなどといっても想像がつかないが、昭和初期に撮影した馬見ヶ崎川の古い写真をみると納得が出来る。

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荒木さんより寄贈頂いたもの。山形市の千歳山付近から撮影で正面に見えるのは護国神社

の鳥居。馬見ヶ崎川の水流の勢いが現代とは全く違っている。

 

話は、瀧山寺にもどるが、

都(京都)には舟を利用すれば安易に行き来が出来たのではないだろうか?

商人や、荘園の者達は「紅花・蔵王の湯花(硫黄)」を積んで都(京都)を往復していたと想定出来ないだろうか?

僧達は修行として、あえて苦しい陸路を歩いたのかもしれない。

 

さらに、もう一つの謎が解明出来るのかもしれない。

西行研究」の著書で、数書に出てくるのが「西行の幼友達親友の寂然高野山に住んでいた」

との文章が出てきてとなっていたが、

ここ、蔵王山のふもとで上山市「高野」という地名がある

蔵王温泉から流れる須川の川沿いに高野と呼ばれる地名があり、

蔵王温泉を下った権現堂という地名をさらに下ると須川の川岸の地名が「高野と呼れている」

古来、岩石から採取した「高価な石」を都(京都)に売りに行っていたとの言い伝えもある場所だ。

噴火のある蔵王の岩石から宝石のような高価な石が採取出来ても不思議はない。

飾りや神事に使われる高価な宝石が採取されたのかもしれない。

すると、貴族ではなく天皇家由来の荘園としても当然の様な気がしてくる。


往来する舟があるとすれば・・・

蔵王山ふもとの高野から、舟で西行のもとに寂然の手紙や和歌は届けられたのではないだろうか?

西行からの文や和歌も都(京都)から舟で日本海最上川→馬見ヶ崎川→須川→高野(ここで舟を下り)→人足により蔵王温泉→瀧山寺

西行と寂然の友情は共に高齢になるまで続いていたと思われる。


かくして・・・

不本意にも、送り込まれてしまった謎の僧も、その舟のルートを使い、都(京都)に密書を送り続けたのではないだろうか。

 

官僧・・・・

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官僧・・・簡単に言えば、

貴族や天皇など、移動がままならない殿上人の手足となる僧。

 

現代に当てはめれば「国家公務員的な僧侶」

 国家的な祈祷に携わる代わりに、国家から給付を受ける事になっていた。又、

軍役など課役の免除、衣食住の保証、刑法上の特権などが付与されていた。刑法上の特権としては、官僧は、国家によって拷問をうけないという「刑部式」の規定があった。Wikipediaより

                                                                                                                               

古代にあっては天皇が得度(僧になる)許可権を有していたので、天皇は、いつ誰を、どれだけの人数を僧侶にするかの決定権を握っていた。wikipedia注釈より

出家した者は,授戒を受ける事で正式な僧尼として認められた。

日本における授戒制度は奈良時代に唐僧鑑真にはじまり、755年には「東大寺

822年には延暦寺国立戒壇がつくられた。Wikipediaより  

 

天皇が「官僧」を僧尼に任命するとしても、平安時代は貴族の藤原氏勢力が強大で、それぞれが自分の娘を天皇に差出して、次期天皇となる男子を産んでもらおうとしていた時代だった。

外祖父となり政治を操り身分と財力を得ようと競争の最中にあった。

平安末期は天皇が転々と変わり、上皇が政治をしたり、政権を奪い取り流刑にしたり暗殺したりと欲望渦巻く時代でもあった。

そんな情勢の中で官僧は単純に天皇が選んで任命することなどあったのだろうか?
言い寄る藤原貴族の誰かが推薦して(よきにはからえ・・)ではなかったのだろうか?

瀧山寺が・・なぜ・・彼らの目にとまったのか・・・

急速に繁栄を極めたから・・と昔からの言い伝えが耳に残っている。

さらに、

三井寺(圓城寺、空海最澄、混合の教で天台宗)。

奈良仏教東大寺系の官僧にしてみれば、天台宗(最澄)も真言宗(空海)も、はやりの新興宗教に感じられたのではないだろうか?


些細な事が、幾多の命を奪う恨みの種をまいてしまう

どんな優秀な集団でも、年月が流れていくと、欲望という病に侵されてしまう。

現代の政治が解りやすい例かもしれない。

自分が老いて政治家引退すれば息子や娘に引き継がせようと躍起になる。

自分の地位を保持したいために何でもやる。

メディアは視聴率の高い番組を優先する。

 

崇高な人間の生き方を教える宗教でも、携わる人間の欲望で崩れていくのは仕方がないのかもしれない。

日本に仏教が伝わってから久しくなると、地位や欲に走る高僧が出る。

 

桓武天皇は若く正義感あふれる僧、最澄を見出し応援し仏教の最高位に着けたが、

その時、桓武天皇は【清廉な祈願】をする「天台宗を国家の方針として、

従来の奈良仏教徒に(聖武天皇が【大仏】を造り国家を安定させようとした官僧達)

天台宗を学ぶように言った・・・(屈辱ではなかったか?)

 

 桓武天皇が亡くなると、天台宗最澄)の勢いは止まり、

嵯峨天皇密教【呪術的祈願】を最新の宗教として真言宗空海)を重く用いた。

このように、

それぞれの天皇が統治をするのにあわせて、仏教は選ばれていった。

もちろん天皇が選ぶには側近の藤原貴族の後押しがあっただろうと思われる。

奈良の都が荒廃したのは人間の欲だけではなく、他の要素もあったと思われる。

たとえば、大仏を金色に仕上げるには国費がかさみ、寺院や貴族が富み、

労役や税で困窮する民との貧富の差が激しくなったこと。

 

さらに金色に仕上げる時に化学反応で水銀が流れ

市中に水銀が蔓延し中毒患者が多く出た等。

 

しかし、新しい天台宗最澄を師とするように方向がなった時には

悔しさと恨みが起こっても止められなかったのではないだろうか?

「いつかはきっと盛り返す・・」

 

そんな思いがあっただろうと想像できるのは、

法然親鸞日蓮栄西道元 は皆「官僧」としての仕事をしていた。

そして、

誰もが知っている鎌倉時代の新仏教開花となった。

 

その根底には、奈良仏教の主な考えとなっている

≪仏教を日本に持ってきた「聖徳太子を崇拝」している。≫

奈良から始まった仏教を正当な仏教として・・・・巻き返し?


まだまだ・・・


官僧の理想は、歴史を綾なして、戦国時代も暗躍し、

やがて、徳川家康の江戸時代に、

官僧の理想は実現されたのではないだろうか。

寺の檀家制度や寺子屋など、仏教をもって国(国民)を統治する。

その理想・・・・・

 

しかし、今、瀧山寺を調べているのは、

患者を治そうと頑張っていた僧侶と患者が、

逃げ道が無いように山ごと焼き殺され数百人も犠牲になった。

そして誰もが口を閉ざし権力者にさからうこともしなかった。

 

残された石の鳥居が点在する中で・・・

 

心のよりどころとなる宗教が争いの種になるようなことが無いように

する方法はないのだろうか・・・

 

 

宗教の争いに瀧山寺は巻き込まれたのだろうか?

それもあるかもしれないが

いえ、

それだけではない・・

 

瀧山寺の住職 如月(寂然)の出生の秘密が・・・・

 

瀧山物語(悪僧と言われ続けて830年余り 前篇)

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長い歴史の中で、疫病(天然痘・らい病・ウイルス・感染症)との苦しい戦いを繰り返してきた。

奈良時代平安時代天然痘やらい病などの皮膚病が蔓延し感染者が貴族から平民まで身分に関係なく広がっていたと思われる。

医師の役割は僧達が担い薬草や温泉治療など自然界にあるものを用いて効能を試行していたと思われる。

 

しかし、増え続ける感染者に国家として・・・

 

瀧山寺以外にも「悪僧」と言い伝えられている寺社がある。

岩手県一関にある「室根山神社」にその痕跡があった。

※室根山神社

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室根山山頂近くに「室根山神社」がある。

美しい円錐形の山の山頂付近には昔々、寺があった。

その寺の僧達は行き所をなくした疫病患者(天然痘・らい病)を支援し

寺の傍に宿舎を建て、数十人を看病しながら生活をさせていた。

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     今は神社となって、静かにたたずんでいる。

     

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     訪れる参拝者の姿もまばらで地域の人々に大切に祀られている。

    

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石造りの大黒様が確認できるだろうか? 大黒様を日本に持ち込んだのは密教で、空海真言宗)と思われる。とすれば、貧民や病人を救済し土木工事を行った「行基の思想を継承していたのではないだろうか。そして「天台宗」だったと言い伝えがあるとすれば、瀧山寺と同じ「寺門派」天台宗と思われる。

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この積み上げた石が仏教文化の名残なのだろうか?

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ある日、何者かに疫病を患っている者も医僧たちも全員惨殺されて・・
瀧山寺と同様に

「性悪の悪僧が住んでいたので退治した」との作話を言い伝えとされてしまっている。

 

もうひとつの悪僧伝説・・・

松島湾

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遊覧船に乗ると観光案内のアナウンスが船内に流れる。

やさしく美しい声で案内されるがその中に

「悪僧達が用いた書物を燃やした島」との意味のアナウンスが流れる。

昔々あった寺は「松島寺」天台宗山門派( 比叡山 最澄 )

 

 

山形の瀧山寺岩手県一関の根室寺門派

 

圓城寺(えんじょうじ)通称 三井寺   

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宮城県松島寺山門派

 

比叡山(ひえいざん)↓

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平安時代 比叡山最澄・円仁)と 園城寺空海最澄円珍

対立していた。

 

対立の原因は権力抗争

比叡山は現代の 国立大学のようなもの。 天台宗の総本山・・・ 比叡山

園城寺は現代の 私立大学のようなもの。 天台宗寺門派の総本山・・滋賀

 

  円仁門徒と争った円珍門徒が993年独立した。

 

   <私立大学を国立大学にしたい>

                 <そうはさせたくない>

 

 

1035年3月7日:園城寺三尾明神の祭りに

            延暦寺僧徒が乱入

        1035年3月29日:園城寺僧徒が延暦寺明尊の山上坊舎を焼く

 

1038年10月27日:延暦寺僧徒は明尊が天台座主になるのに

            反対し入京奏上を出す。

1039年3月16日:延暦寺僧徒が高陽院に放火する。

           (高陽院・・桓武天皇の皇子邸)

1041年5月14日:園城寺戒壇設立について

           延暦寺が反対

            (戒壇設立・・国立大卒業証書発行)

1042年3月10日:延暦寺僧徒が円城寺円満院を焼く。

1048年8月11日:明尊を天台座主とする。延暦寺僧徒拒む。

1079年6月2日 :延暦寺僧徒1000人余り、八坂神社に強訴

 

        1081年4月15日:園城寺僧徒日吉神社の祭りを妨害。

1081年4月28日: 延暦寺僧徒、園城寺を襲い建物を焼く。

1081年9月14日:園城寺延暦寺の僧徒、園城寺にて争い逮捕される。

1093年8月6日:延暦寺僧徒、天台座主を襲う。

1095年10月24日:延暦寺僧徒、源義綱を強塑。

              源義綱が神人を射殺。

1100年6月8日:園城寺僧徒、同寺長史隆明の坊舎を焼く 。

1101年12月3日:延暦寺僧徒が闘争。

1102年5月7日:延暦寺僧徒が法成寺長史を強訴。

1104年3月  :延暦寺園城寺の争い激化する。

1105年1月日:延暦寺僧徒が園城寺僧證観を訴える。

1106年9月30日:延暦寺僧徒が藤原信長(故人)宅に行き乱行。

1108年4月1日:源平2氏に延暦寺園城寺の入京を防護させる。

1109年6月8日:延暦寺僧徒、清水寺別当を訴え蜂起する。

1111年11月16日:延暦寺の僧逮捕される。

1112年3月13日:延暦寺僧徒、八坂神社に行き強訴。

1114年7月6日:延暦寺山頂で兵仗を帯びる。(山頂で武装

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1121年5月27日:園城寺の僧徒が延暦寺の修学僧を殺した為、

           延暦寺僧徒房舎を焼く。

1121年閏5月2日:延暦寺僧徒が園城寺金堂を焼く。

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1133年7月21日:延暦寺西塔の学徒と中堂の僧が争う。

1138年4月29日:延暦寺の僧徒が神輿を担いで京に乱入。

1140年閏5月25日:延暦寺の僧徒が園城寺を焼く。

1142年3月16日:園城寺の僧徒が延暦寺を焼く。

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1150年9月16日:山徒の争闘を禁じる。

1160年10月12日:延暦寺僧徒、神輿を担いで入京し強訴。

1163年6月9日:延暦寺僧徒、園城寺房舎を焼く。

1164年10月5日:延暦寺僧徒、天台座主の房舎を焼く。

1165年8月9日:延暦寺僧、清水寺を焼く。

1169年12月23日:延暦寺僧徒が神輿を担いで権中納言を訴える。

1177年4月13日:延暦寺僧徒が日吉神社白山神社の神輿を担いで訴える。

1178年9月20日:延暦寺堂衆、群盗を集めて学徒と戦う。

1178年10月4日:法皇平清盛に命じ延暦寺の学徒をたすけ

           堂衆をを打たせる。

            (堂衆・・・下っ端の僧)

1179年7月25日:延暦寺の同衆を討たせる。

1180年12月11日:延暦寺園城寺が源氏についているので平氏これを討つ。

1189年12月14日:延暦寺衆徒ら天台座主を追放する。

 

まだまだ続き、

1330年6月22日 延暦寺僧徒建議し、一向宗徒の放逐と禁圧を要請。

   

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最澄空海も嘆き悲しんでいたのでは・・・・・

現代でも、

国会のうんざりするような派閥争いや不正行為、

世界規模の権力者たちのあくなき欲望、

刀を持ったり放火はしないけれど、

もっと陰湿で悪質な金と欲の世界が

今も存在しているように感じられる。

 

 

僧侶が武装するのはこの関係者だけで、

他の僧は人々を救済する使命に

心を熱くしていたと思われる。

 

 

この対立の余波で、「瀧山寺」と「室根神社」と「松島」

が悪僧と呼ばれる不運に見舞われたわけではないと思われる。

何故なら、

自分たちの争いで精一杯と 感じられるが・・・  

 

 

 そして、さらに、 比叡山園城寺の争いを

      陰であおり、仕組んでいる者がいたとしてら・・・

 

 その勢力こそ、注視しなければならないと思うのだが・・・ 

 

 

 

   後篇に続く

 

           

 

 

         

 

 

 

            

     

 

 

 

 

 

 

 

 

瀧山物語(西行の桜・・あふれる想いの大山桜・・)

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瀧山を眺める西蔵王の中腹に咲く大山桜。西行法師が植えた一本の桜木から長い年月を重ねて桜並木になって行った。

西蔵王の中腹に「三百坊」という名の蕎麦屋があります。おいしい蕎麦で山菜の天ぷらも近くの西蔵王で採りたての物を作って出してくれます。

その、「三百坊」そば屋の存在と由来が書いてある小さなパンフレットから、瀧山物語の探索が始まったと言ってもいいのかもしれません。それは下記の物です↓

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歴史的に見て、瀧山はどうだったのだろうか? 住職は流刑の僧だったのか?

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西行法師の歌が刻まれている。

西行法師が訪ねて来た僧とはどのような人物だったのだろうか?

西行は生涯で2回東国(東北)に旅をしている。

西行の生涯』を研究している某氏の貴重な資料から引用させて頂き、

歴史探索を進めてみたいと思う。

 

1118年 : 佐藤義清(のりきよ)生誕と言われている。

        父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経

        奥州藤原氏と先祖を同じくする。

1135年 : 18歳で成功によって兵衛尉に任じられる。

         ※成功とは官位を買う事。

         主家、大徳寺の関係で鳥羽院北面の武士になる。

1140年頃: 22歳か23歳の頃 出家

         僧としての名は 円位  ・歌人の名は 西行

1147年6月:30歳。陸奥の国に旅立つ(この年、源頼朝が生れる)

1148年  :平泉で東稲山の桜を見る。

1149年  :秋から冬の頃京都に戻る。

1149年  :西行32歳 高野山に入る

          『撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。

          、【鬼の、人の骨を取り集めて人に作りなす例、信ずべき人の

           おろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨を

           あみ連ねてつくりて侍りしは~

 

           要約:(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死体

              を集め並べて骨に 砒素(ひそう)という薬を塗り

              反魂の術を行い人を作ろうとした。・・・

              ・・・うまくいかなくて野原に捨ててしまった・・

 

1152年頃 :西行35歳 何度か遠くに修行の旅

          西住と行動を共にしていた。       

         (平清盛 厳島神社を修造)

 

1156年7月:西行39歳 崇徳上皇 讃岐に流される。

         崇徳上皇天皇)は西行法師の主家大徳寺ゆかりの

         人物でほぼ同じ年。

         崇徳天皇鳥羽天皇の息子だが本当は祖父白河天皇の子

         で、そこから歴史は難解な殺りくが繰り返されて

         いく事になる。


         さらに、佐藤義清(西行)が

         出家の原因の一要因となったのは崇徳上皇天皇)の母

         (鳥羽天皇中宮)と、一夜を共にし、

         それを見咎められて

         親族や子供に災いが掛かるのを防ぐために出家した

         との説がある。

1164年 :西行47歳  崇徳院 讃岐で没。(46歳)  

          崇徳院は何者かに襲撃され没した。

 

1167年 :西行50歳 平清盛太政大臣となる(50歳)

1168年冬:西行51歳 四国の旅に出る。

         ・崇徳天皇の慰霊・・・雨月物語

            恨みで怨霊となった崇徳天皇の霊を西行法師が

            慰める話 

 

        ・ 弘法大師の遺跡参り。

         「善通寺」あたりに

            西行弘法大師の地に向かい ある期間、

                庵を結んで住んでいた」と書かれている。

         そこは空海の父、善通の名をとって寺号とした

         とも言われ空海の先祖、佐伯氏の氏寺とも

         言われている。

         善通寺は75番の札所で、

         72番の曼荼羅寺には西行桜がある。

 

1171年:西行54歳 四国から戻り熊野にて修行。

1172年:西行55歳 親友で修業を共にしていた西住

        危篤との知らせで都に駆け戻り、看病し看取った。

        西住の死を悲しむ西行を気遣う歌を届けた

        寂然もその時、病の床に臥していた

        可能性が高い。

        この歌の後寂然の歌は現れない。

 

1180年:西行63歳 伊勢に住居を移す。

        平重衛の焼き打ちにより奈良東大寺大仏が焼失。

        重源は被害状況を視察に来た後白河法王の使者

        藤原行隆の推挙により

        再建のための勧進職に就いた。

 

1186年:西行69歳 陸奥の国に旅に出かける。

       奈良の大仏は当時、顔にだけ金箔が貼って、全身には

       資金が無く金箔を貼っていなかった。

       東大寺造営の勧進(資金集め)勧進上人の重源

       奥州藤原氏から

       砂金を寄付してもらうように西行に依頼してきた。

 

       重源は資金集めに苦慮し、協力の約束を違えれば、

       現世では「白らい黒らい」(重度の皮膚病:らい病・天然痘) 

       の身を受け、来世では「無間地獄」に落ちて脱出できない。

       等と恫喝的な文を残している。

      しかし、

      もう一つの理由があったと思われる。寂然の安否・・・

1186年8月15日:鶴岡八幡宮源頼朝と対面。

        義経を捕らえるための関所があったので「通行証」が

        必要だった。

        その時、流鏑馬(やぶさめの事を西行から

        聞き書き留めたものが

        現在の鎌倉祭りで行っている

        流鏑馬として伝えられている。

        ※この時期、関所を通りぬけた

         義経一行の話が勧進帳

              奈良の大仏修繕の寄付集め(勧進

              に各寺を回っていると・・

           そうして、義経を連れ関所を逃れた話。

        この、鎌倉幕府に滞在した時、源頼朝から

        銀の猫をもらったが、近くにいた子供にあげてしまった

        という逸話がある。

        当時、銀は高価なもので、大仏造営の目的で奥州に旅を

        しているという目的には反する行為となってしまう。

        

 

 

1187年:西行70歳 旅より帰る。

 

         京都嵯峨の庵に住み、

         旅より帰ってから、生涯の作品を整理しながら

         子供遊びを題材にした「たわぶれ歌」を読む。

         ※たわぶれ歌は私日記的なものと思われる。

 

 

         ・「竹馬を杖にもけふはたのむかな、

                童(わらわ)遊びを思ひでつつ」

 

            訳:幼い時の遊び道具の竹馬を、今日は杖として

             頼むみになってしまった、子供の頃の遊びが思い

             出されることよ。

         

 

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         ・「昔せし隠れ遊びになりなばや、

                片隅もとに寄り伏せりつつ」

 

                   訳:昔した隠れんぼをやりたいものだなぁ

                    今も子供たちは私達が子供の時にしたように、

                    あちらこちらの片隅に臥せてたくれているよ

             

 

       幼いころからの友人は・・・・寂然?

 

そして・・

 

  死が近いことの予感のもとに、

 

        当時の一流歌人である貴族の藤原俊成藤原定家

        自分の歌2首を提出し、どちらが良いか評価して欲しいと

        訊ねている。

      

      その一首の中に

 

 

       ねがわくは はなの下にて春しなん 

              そのきさらぎの もちづきのころ『山家集

         

         評価を依頼された当時の権力者 藤原俊成

           美しくない と 却下した。

 

 

        この西行の最後の行動のなかに、何か挑戦的な意気込みが

        感じられる。待ちに待った判定が藤原定家から届いた時の

        西行の喜び様には何かが感じられる。

                        西行生涯 日本の歴史より

1190年2月16日:西行73歳 河内の広川寺で、没す。

 

 

 

西行法師が、高齢の身体で奥州に一人旅をする理由は?

西行法師が、桜木を植樹する理由は?

 

特別な思いがあったのではないだろうか・・・・

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険しい山道を69歳の老僧が越える気持ち・・・

 

・東の方へ相識りたりける人の許へまかりけるに 

     小夜の中山見しことの昔になりけるを思ひでられて

 

 年たけてまたこゆべしと思いきや 命なりけりさやの中山

  

 

   訳:東国へ知人を訪ねていく時に 小夜の中山を越えたことが昔になったと思い起こされて

    こんなに年老いて この小夜の中山を再び子超える事が出来ると思っただろうか 

     それなのに今またこうして小夜の中山を越えようとは まことに命があるおかげであるよ

     

  

伊勢の地で安住の生活をしていた西行が老体を押してまで奥州まで出向かわなければならなかった理由についてはいろいろ考察されている。身分もない地位もない西行である。その西行が奥州を治めている権力者になぜ貢献を督促できるのか。

藤原秀衡源頼朝との覇権争いはまだ決着がついていない。

そんな穏やかならぬ土地へ七十にならんとする老僧が行けると思ったのか。

東大寺のトップ層にいた重源と権力構造の外側にいた西行とはどのような距離感あったのだろうか?           西行生涯 日本の歴史より

 

どうしても行かねばならぬ思い

どうしても会いたい人がいる

        そう考えてよいのではないだろうか?

 

しかし・・・

たどり着いたとき、会いたい人には会えなかった・・・・

 

 

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雪の降りしきる吹雪の寒い日に・・荼毘にふされて・・

もしかして、桜の苗木を供養として植樹したのかもしれない。

瀧山の山頂、「龍山寺」から見下ろせる場所に。

毎年春、花が咲いたら 西行がここにいるよと知らせるように。

 

桜の木は800年以上ここにある。

若い木は衰えていき。やがて、枯れていく。

桜の実は 地に落ちて やがて若い芽を出し育っていく。

幾年も、幾年も、繰り返し、桜の木は大きくなって増えて行く。

心優しい土地の人の手を借りながら続いてきた・・・

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幾世代も越えて咲き誇る大山桜

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瀧山寺の住職が 西行法師の幼少からの友人と仮定すれば

西行30歳の旅

最初の陸奥の国への旅は、奥州藤原氏の後に、瀧山寺に立ち寄り、

冬期間を蔵王で過ごして行ったのではないだろうか?

 

奥州平泉には10月に着いている記録があるから、

蔵王温泉・瀧山寺には11月に着き、雪が解けるまで過ごして

いたのではないだろうか?

 

 

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凍りつく瀧の流れを読んだ歌がある。西行を研究している専門家もどの場所だろうか?四国や高野山では該当する場所を探しきれないでいるようで、もしかしたら瀧山なのかもしれない。

 

・岩間せく木葉わけこし山水をつゆもらさぬは氷なりけり

 

・水上に水や氷をむすぶらんくるともみえぬ瀧の白糸

 

その他にも氷をよんだ歌は数多くある。

和歌には表面の意味とメッセージが重なっているものだが・・・

 

 

さらに、二人は好んで月を題材にした。

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二人で歌をよみあい、参拝者の為に読経し、蔵王の温泉に浸かり過ごしたのではないだろうか。

 

・常よりも心細くぞ思ほゆる 旅の空にて年の暮れぬる

 

  訳:いつもの年よりも心細く感じるなぁ 旅の空の下で年がくれていくよ

 

 

雪が解け、春の兆しが見え始めたころ・・・

西行法師は山を下りて、都へと帰って行く。

春が近づく気配を眺めながら、友人との別れを感じていたのではないだろうか

 

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瀧山寺から春めいた西蔵王を二人で眺めていたのかもしれない。



    お互い30歳の若い僧侶で歌人の二人は

            この雪解けの春風が今生の別れとなった。

 

 

しかし、遠く離れていても、和歌をしたため 行きかう人に届けてもらいながら

55歳頃まで交流は続いていたと思われる。

もう一人の友人、西住が亡くなった頃までは。

 

 

 ・・懐かしい思い出・・

 

貴重な 某氏の西行研究から・・

          西行の生涯を研究し、より正確な資料を残して下さった先生に感謝しながら)

 

 

 為忠が常盤に為業待りけるに、西行、寂然まかりて、太秦にこもりたるに、

かくと申したりければ、まかりたりけり。

有明と申す題を読みけるに

今宵こそ心のくまは知られぬれ、入らで明けぬる月をながめて

     要約:今宵こそ、本当に心の隅々まで知り合うことが出来た

        西の山に入らないで一晩中、夜の明けるまで明るく

        照っている有明の月をながめながら

        そうこうしているうちに静夜、寂昭らがやってきて

        話をしながら連歌になっていった。

        秋で肌寒いので(西行と寂然は)背中合わせになって連歌をつくり

        すごしたのでした。

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 さて、明けにければ、各々山寺へ帰りけるに、後会いつと知らずと

  申す題、寂然いだして詠みけるに

  帰りゆくもとどまる人も思ふらむ 又逢うことの定めなき世や(寂然)

         要約:帰って行く人も、ここにとどまる人のことも思っています。 

            又、いつの日、逢うことが出来るか定めない世でありますね 

 

 

 西行が出家して間もない頃の、若い僧達が過ごした様子。それぞれが修行の

 寺に戻り、厳しい修行の合間に和歌を詠んで交流していたと思われる。

 

 

 西行から

   入道寂然、大原に侍りけるに、高野よりつかはしける

   山深み窓のつれづれ訪ふものは 色づき初むる櫨の立木

           入道  ごく親しい呼び名

            秋になって行く風景をつづった手紙様の和歌

 

返し寂然

  炭がまのたなびく煙一すじに 心ぼそきは大原の里

  なにとなく露ぞこぼるる秋の田に ひた引き鳴らす大原の里

           ひた  鳴子 田畑を荒らす鳥を追い払う物

 

 

 

 

西行法師は生涯、友達を守るために奔走していたのかもしれない。

 

 たぐいなき おもいではの桜かな

           うすくれなゐの 花のにほひは  

 

    

   ① 類のない 思い出羽 の桜かな少し赤い 花の香りは

 

 

   ②   何ものにも代えられない 思い出は 野桜(山桜)のように

      周りにある草木の中で少し赤く 香も強く 生涯でも忘れられない事だ

 

 

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 桜は平安時代、京の都に咲き誇っていた・・・・

 幼き頃は桜の花が咲き乱れる京の都で友と語らい過ごしていたのかもしれない・・

瀧山物語(月のごとく生きよ)

知らぬ間に、らい病に感染してしまった若い僧侶は「蔵王温泉(昔は高湯と呼ばれていた)」は蔵王温泉の西側にある小高い丘の「瀧山」に住職として赴任してきた。

彼は京都から徒歩で富士山を眺め白石(宮城県)を通り、羽前街道を歩き、宮城蔵王の方から登り、山脈を越えてたどり着いた。それが昔のメインルートのようだから。

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現在に残る羽前街道(宮城県蔵王町

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細い道が山形県に続いていたと思われる。

京都の面影がある「ひな人形」のような面立ちの

若い旅の僧侶は一人この道をあるいたのかもしれない。

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昔から、この道が使われていたことが書いてある。

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蔵王山脈を越えたところに、温泉治療でにぎわう場所があった。そこの小高い丘に赴任地の「瀧山寺」がる。そこは天空の離れ孤島のような別世界だったのではないだろうか。

彼は20代でこの地に着いて、1187年の早春に息を引き取ったので69歳位まで長生きできたのではないかと思われる。硫黄の強い蔵王温泉は彼に健康をもたらしてくれたのではないだろうか?しかし、最後はらい病が身体をむしばみ、庵で養生する生活をしていたと思われる。高齢になり温泉に浸かる事が困難になったころから病状が悪化してきたのかもしれない。現在のように良薬が無い時代だったから・・・

 

瀧山寺の住職は、瀧山全体を「祈りの山」として仏教文化の華を咲かせた人物。

今に伝わる「300坊」・・・300件程の宿坊があり、それぞれが医僧(病気を治す僧侶)達の精魂込めた治療をする場となっていた。

その宿坊を持つようになる僧侶達は、幼子の時に親から寺に預けられた子供達だった。

当時は子供を僧侶にするとその一家が仏に守られると信じていたために、様々な土地から幼子が集まってきた。

その為、幼子を育てる乳母がいて、「乳母神様」が祭られ元気に成長するようにな仕組みが寺社に出来ていた。

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老いた僧は畑を耕したり生活を支えていた

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幼子や面倒をみる女性もいて賑やかな空間もあったと思われる。

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子供達が元気に育ち、病気の人や困っている人達の手助けをすることが出来るようにと見守っていた。

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幼子達も大きくなり、水汲みや力仕事など生活の支えと、なりながら、仏の教えや医術を学んで大きく育っていった。

厳しい修行の結果、やがて僧侶としての名前を住職からもらい、宿坊を与えられると、教えられた事だけではなく、それぞれの工夫で特色のある宿坊が点在するようになった。

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患者は、病気が良くなって帰る時、米や野菜などの気持ちを供物として置いて行った。

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医僧達は数人ずつのグループで勉学し、救済に生涯を費やしてこの土地以外に出る事はなかった。食料も少なく1日2食で重労働しそれでも満足し日々を過ごしていた。

そうして瀧山寺(仏教文化)は西側の西蔵王の土地にまで広がって行った。

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参拝と治療を受ける事は近隣諸国に伝わり、多くの人々が集まってきて。西蔵王中腹に広がって行った。西蔵王からは、馬や荷馬車で蔵王温泉に入浴に行ったと思われる。

ひな人形の様な優しい顔立ちの住職は顔に包帯を巻いた姿で参拝者のためにお経を唱え幸いを祈願し、月のごとく穏やかで静かに職を全うしていたのではだろうか・・・

・・・・・・・・・・住職の名前は 如月 というのではないだろうか?

 

  西行の幼いころからの親友で歌人の・・・大原三寂と呼ばれていた兄弟の末子

  寂然ではないかと・・・・

 

瀧山物語(祈りの山。天候不順と疫病から救いを求めた奈良・平安時代)

■日本の古墳時代から奈良時代平安時代は地球規模の温度低下にみまわれ、農作物収穫量の低下と疫病によるパンデミックがあったのではないだろうか?(西暦400年~1192年頃)。

 

干ばつと長雨や豪雨は食糧難と貧困を生み出し、支配者達は年貢として取り立てる収入減を補うために戦をする。身内や仲間同士だったり、近隣への侵略だったり。民を兵としてかりたてる為に人口が減少していく。

 

しかし、日本だけではなかった。西洋史の中世前期はローマ帝国滅亡した暗黒の寒冷期と呼ばれている頃とつながるような感じがするのだ。

 

 ■ヨーロッパ中世前期(暗黒の寒冷期)西暦300年頃~700年頃

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瀧山物語(瀧山寺と温泉とらい病と)

人間の歴史は紀元前から疫病との戦いだった。

 

奈良時代平安時代も、天然痘らい病を患う人々が多かったと思われる。

さらに、日照りや長雨などの天候不順で不作が続き、道端で行き倒れて亡くなることも多かったと思われる。

奈良時代

705年  この年、大風、日照りのための飢饉と疫病の流行が二十か国に及ぶ。

      その後も飢饉と疫病は河内、摂津、出雲、安芸、讃岐、伊予にも広がり

      盗賊が横行し人民、真辛苦する。『続日本紀

 

737年  この年、天然痘が流行する。

      藤原房前藤原麻呂藤原武智麻呂藤原宇合

            天然痘に罹り相次いで死亡。

そのような社会の中で、身体を清潔にする余裕などは皆無ではなかっただろうか?

貴族達も入浴を常習する習慣は見られていない。

 

天然痘らい病は次々と伝染し、栄養不足の貧民から疫病の餌食となって行ったのではないだろうか?

貧民救済に頑張った僧達が感染してしまうのは残念なことではあるが、ある意味当然の事なのかもしてない。

空海らい病に感染してしまっていたとしても、彼の民を救済したいという行動から起きてしまった事でななかったろうか?

 

嵯峨天皇からの信頼を得て、順調で多忙な日々の時にらい病が発病してしまう。

らい病の潜伏期間は数年以上になる時もある事からいつ感染したかはきっと不明ではなかっただろうか。

記録にあるのは、病気悪化のために職を辞して高野山にいったとある。その後に

四国八十八霊場を巡り、病気平癒を祈願したとのことだが。

残念ながら病に勝つことは出来ずに亡くなってしまう。

 

その亡骸は、身辺の世話をした少数の僧により火葬された。

火葬にしたとの事は疫病(伝染病)であったことの証明になるのではないだろうか?

 

追跡したのは・・・

世話をした少数の身内同然の僧達だろうか?

患部の治療や包帯を交換したりした僧にらい病は感染しなかったのか?

その僧達はらい病の治療を経験してきており精通していたのではないだろうか?

そして、

その僧達は自分に感染しているかもしれないらい病の治療のために蔵王の温泉(高湯)に赴いて温泉治療はしなかっただろうか?

 

 

蔵王山は「不忘山(わすれじのやま)」と百人一首にも歌われており、さらに

最上川つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」『山家集

 

このように、歌に出てくる事を考えると

蔵王山はある程度の知名度があったのではないかと想像できる。

 

それは、

古来より蔵王山は、硫黄の温泉で、皮膚病・リウマチ・その他多くの病気に良く効くとされているため、

天然痘やらい病等の皮膚疾患や、戦いで負傷した人々、田畑仕事の腰痛などの湯治で賑わっていたのではないだろうか?

 

なぜ、都より遥か遠い出羽の地なのかと言えば、最上川という舟を利用した参拝ルートが安易だったこともあるが、都より近い草津温泉箱根温泉が安全に利用出来なかったからということも想定できる。

なぜなら、富士山の噴火が頻発していたからだ。

  <富士山の噴火>

  482年頃       旧暦3月~4月かけて噴火『走湯山縁起』

  781年        噴火  奈良時代

  800年3月から4月  延暦大噴火『日本後紀平安時代

  802年1月及び5月  噴火平安時代

  864年 6月     貞観大噴火『日本三代実録平安時代

  937年旧暦11月   噴火『日本紀略平安時代

 1015年頃       噴火平安時代

 1033年頃       噴火平安時代

 1083年頃       噴火平安時代

 1435年頃       噴火室町時代

 1511年        噴火室町時代

 1704年        鳴動 元禄時代

 1707年        宝永大噴火 江戸市中まで大量の火山灰降下

 

そのほかの硫黄温泉は九州の方になってしまう事から

蔵王温泉(高湯)は都に住む人達にも、貴重な温泉治療の場ではなかったかと想像できないだろうか。

 

 

草津温泉縁起を引用させて頂くと・・・・

源頼朝のもとに薬師如来の権化である童子が現れ、ほかの様々な病と共にらい病 を挙げ、この湯によって病苦から救われると告げたという。草津温泉から引用)

古来、草津温泉は「万病に吉」と謳われ(うたわれ)、多くの湯治客を迎え入れてきた。温泉の保温効果に加えて、草津温泉の強酸性泉による殺菌作用、成分に含まれる硫酸アルミニウムによる収斂作用、皮膚の刺激作用により切り傷から、ハンセン病、梅毒、皮膚病まで幅広い患者を受け入れてきた。(草津温泉WIkipedia)

 

草津温泉が湯治湯としてこれほどまで人気を集めたのは、霊泉の御利益が信仰を集めたからだ。湯畑の上手には薬師堂があり、薬師如来の足元から温泉が湧き出す位置関係にある・・・

この頃はハンセン病(らい病)患者向けの湯があったものの、特に一般客と混浴が禁止られることはなかった。いにしえの草津は病にかかわらず誰もが平等に薬師如来の加護を求める事が出来る信仰の場だったのである・・・・・

ハンセン病は当時、すでに医学的にはこの病気が感染症である事は明らかになっていたが、草津町では遺伝病と誤解されていた様だ。それくらい、この病気ほ感染力は低い。温泉街の宿屋で逗留する患者と寝食を共にしたにもかかわらず、宿屋業者の家族で一人としてハンセン病にかかった者はいなかったという・・・・

                        (ハンセン病と向き合う人々より引用)

 

  

蔵王温泉の効果も同様に皮膚病や万病に効くといわれ、硫黄の匂いが湯気と共に立ち込めている。平安時代蔵王山(高湯温泉)と瀧山の情景も、このような薬師如来を信仰し病気平癒を願う湯治客でにぎわっていたのではないかと推測出来ないだろうか?

 

では、

空海を看取った僧侶は?

空海弟子に「真然大徳(804~891)」がいる。空海の甥といわれている。

その真然大徳廟が894年・1131年・1640年と何度か掘り返され墓を造りかえれている。そして蔵骨器も何度かあけられたのか、中には火葬された骨が入っていたとの事。不思議なミステリーがある。

しかし、何者かが、真然大徳はらい病に感染していたのかどうかを確認したかったかもしれないとすればありえる話になるのではないだろうか?

 

真然大徳が蔵王山や瀧山に来たことがあったかどうかは、ここまでの調べでは不明だが、こののちに、京の都に住む、らい病を患った青年僧侶が自身の病気を住職に相談したところ「出羽の国にある瀧山に行くように」と告げられた。

その京にある寺院は天台宗最澄真言宗空海が共に仏道を探求した寺院だ。

 

 

大切な青年僧侶はやがて瀧山寺の住職になるべく京の都から出羽の国へ旅立つ

 

 

 

 

瀧山物語(瀧山寺は蔵王で温泉治療をしていたのかも?)

山形市街・上山市街から眺めると高くそびえる瀧山がある。その背後にはさらに高くそびえる山々の蔵王山脈が連なっている。

その「蔵王」という名前は珍しい呼び名ではないだろうか?

 

奈良県吉野町に「総本山金剛蔵王大権現」があり現在も信仰を集めている。

その、蔵王大権現を祀ったのは「役行者(えんのぎょうじや)」だ。役行者飛鳥時代の呪術者として知られている。大自然そのものを霊山として過酷な山岳修行を行い霊力を得ていたと思われる。

また、

西暦110年頃に発見された温泉は「高湯温泉」と呼ばれており、刈田峰神社がまつられていた。古くはこの山々を「不忘山(わすれじのやま)」と呼んでいたが文武天皇(697~707年)蔵王権現をこの地に奉還し名前も「蔵王山」と改めた。

 

平安時代の初めころから蔵王山蔵王大権現が仏教文化と共に知られるようになった。

 

山形の地には「行基菩薩の開祖」と言われる寺が多くあるが、

その「行基菩薩」の思考が瀧山寺に受け継がれているのではないかと思われる。

では、行基とはどのような僧なのか・・・

 

飛鳥~奈良時代、仏教は国家機関や朝廷が、僧や寺院の行動を規定し、民衆に仏教の普及は禁止されていた。

 

その禁止を破って、行基が、貧民救済病人を治療するための宿を造ったり

ため池水路を作り川の氾濫をおさえたり、

橋を造り川で流される子供や人々を助けた。

そうした行動に賛同する若者が小集団を形成し、

その集団形成は近畿地方から広がって行き、

やがて各地に行基菩薩開祖の社会事業が発生し困窮者を支援する寺が出て、僧は、地域の救済者としての役目をはたしていたと思われる。

<余談>

空海も若かりし時はその集団に属しており、その組織により最澄と同じように留学することが出来き、そして、密教を持ち帰ってきた。

 

としてみると、仏教文化が花開いたと言い伝えれられる「瀧山」も、温泉を利用した「治療院」のような役割を持っていたのではないかと思われないだろうか?

 

蔵王温泉の西の方向に見える山が瀧山だ。現在、スキージャンプ台のすぐ後ろに見える近い山並みが瀧山なのだ。

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蔵王温泉から見た瀧山

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崖崩れの上に瀧山寺があったと思われる。そこから若い層たちは患者を温泉に連れて来ていたのではないだろうか?

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山道は若い医僧達が交代で患者を背負って歩いたのではないだろうか?

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らい病や皮膚病の患者達、腰痛や様々な病気を治療するために温泉を利用し、治療をしていたのではないだろうか?

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治療のための専用の温泉も、自分達で造っていたのではないだろうか?

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温泉治療に加え、山中から効能のある薬草を採ってきて治療をしていたのではないだろうか?

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薬師如来に祈り、病気が治るようにひたすらそればかりを生き甲斐にしていたのではないだろうか?




何故なら・・・瀧山の僧達は、らい病の治療方法を知っていたからではないかと

思われる。

それは・・・空海はらい病を患い亡くなってしまったが、その手当をしたと思われる僧が長期滞在したことがあったのかもしれない様子が感じられるからだ・・・。

瀧山物語(奥州征伐の戦禍に消えた医僧達?)

地元の昔語りから聞こえるのは鎌倉幕府北条時頼が悪いことをしている寺と僧を閉山したという言葉だが・・・・

若くして病死した北条時頼が長旅をして出来る事ではないとしたら、いつ、瀧山寺は無くなったのだろうか?

 

■1189年7月~9月に「奥羽征伐」があった。

 

1189年4月30日、源義経が平泉の衣川で藤原泰衡の手にかかり自害した。その首を鎌倉幕府に送ったが、鎌倉幕府奥州藤原氏を討伐するとの兵を送り「奥州征伐」が始まった。

1189年7月~8月、戦場は 飯坂→国見→白石→蔵王町宮城県)四方峠。

27万騎の鎌倉軍と迎え撃つ奥州藤原軍17万騎の大きな戦いがあった。

藤原国衡は笹谷峠を越えて出羽(山形)に逃れようとしたところを柴田郡高山神社付近(大河原町)で打たれたと地元の記録にある。

       

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奥州合戦」激戦地

その時、瀧山も焼き打ちにあってしまったのではないだろうか?

 

軍兵が寺院を焼き打ちすることは、当時、稀な事ではなかった。

奈良の東大寺平清盛の兵により焼き打ちに合っている。

 

瀧山物語(悲劇の寺院、瀧山寺はどこにあったのか?)

瀧山登山は中級の山で人気があり、登山に訪れる人々が四季折々あります。

登山コースは3ルートがあります。

 

大瀧コース  → 難所がありチェーンを伝って登る難所があります。

         眺めが良く上山市が遥か下方向に広がっていきます。 

                               今は登山道が荒れて通行止めになっています。

                  

 

乳母神コース → 雑木林を登って行くと中腹に開けた眺め良い場所に着きます。

         そこに「乳母神」石仏が建っており、「乳母神」は山腹の

         谷間を見守っています。そこからさらに登って行くと急な斜面

         が出てきて、ロープを伝って登って行きます。

 

前滝コース  → 10年位前に大きな台風が来たときに倒木や崖崩れがあり、

         眺め良く、月山・鳥海山がみえるコースでした。

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うがい場

そこは、水神様が祭られた清らかな小川が流れているところです。

きっと、「飲み水やうがいも出来る様な場所」

との意味でそう呼ばれているのかもしれません。

 

その、「うがい場」に着く前に、

三百坊の「石の鳥居」をくぐって登山はスタートします。↓(平安時代のもの?)

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しばらく行くと間もなく、西蔵王放牧場になっている広場に

西行法師が植えた「大山桜」が見えてきます。

残念ながら現在(令和3年)では枯れてしまいました。

10年前の登山の時に撮った写真を掲載します。

桜が咲いている時期の終わった5月でも、切ないほどの美しさがあります。

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2009年5月撮影の大山桜の樹木(西行法師が植えた)

瀧山を少しずつ登って行きます。

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瀧山の山中

歴史のすべては樹木の中におおわれて・・・

出来事のすべては静寂の中にうずもれて・・

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乳母神のコースには乳母神が山腹におります。

「乳母神」を参拝しさらに登って行くとまもなく急な斜面が多くなります。

ロープやチェーンをつたって転倒に注意しながら登って行きます。

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この急な斜面が道なのです。

瀧山寺はいったいどこにあったのか?

このような急な登り道が寺院の参拝道だったとは・・ありえない。

前滝コース、大瀧コース、乳母神コース 共に同じような急斜面の道がある。

寺院に続く参道とは・・・やはりありえない。

 

しかし、

3つのコースが合流するところは山頂のすぐ近くにある。

そこには「瀧山神社」という小さな社(やしろ)がある。

昔は神仏合拝とすれば、そこが、まぼろしの寺「瀧山寺」があった

所ではないかと想定はできる。

やはり、

「三百坊」300件もの宿坊を繁栄させた、信者の参拝道が一つに集まる所が

信者の目的地と考えても良いのではないのだろうか?

 

この急な山道を登って参拝したのだろうか?

 

この山の

山頂に祭られているのは「薬師如来」だ!

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山頂にある「薬師如来」に尺八の音色が広がった。

やはり、瀧山の山頂付近が、まぼろしの寺「瀧山寺」があったところではなかったのだろうか?

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瀧山寺があったと想定される場所は山頂付近?

寺院は、一つの大きな寺院と幾つかの小さな寺が集合しているのが一般的な事を考えれば、

山頂に「瀧山寺」それを囲むように小さな寺があり、

中腹には300件もの宿坊がある。

 

夕方からは、山のあちらこちらでろうそく等のあかりが灯り、

まさしく山全体に宝石がちりばめられたように輝き

神秘的で美しかったのではないだろうか?

 

昔からの言い伝えでは、

「山中のろうそくの明かりが見えた・・・・」との事。

 

里に住む人々はそんな神秘的で美しい山を神として拝んでいたのだろうか?

そのような瀧山に何が起こったのだろうか?

 

 

 

瀧山物語(三百坊・・・300件程の宿坊があり賑わっていた)

三百坊・・・300件程の宿坊があり賑わっていたと想定される

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今は静かな自然がすべてを覆ってしまっている。

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蔵王放牧場を作った時、土の中から多くの生活用品が出てきた。

その中に、古銭も多く出土したことから、郷土史研究が始まったといっても良い。
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三百坊とは宿坊が300件程あった・・という事になる。
その宿坊を営む人は少なく見積もっても900人

(1件で3人、調理・布団や配膳掃除。

    報酬や賃金は無いだろうから家族単位かもしれない)
泊り客は一組から数組。人数では1人~5人位。

昔は徒歩が殆どと思われるから必ず参拝は数日の宿泊が必要だったと想定される。

では、1日どれ程の人数がこの地にいたのだろうか?

    宿の世話人     約3名 X300件 = 900人(おおよそ)

    旅人【参拝者)  平均3名 X300件 = 900人(おおよそ)

    茶屋、土産物店の人 約2名 X100件 = 200人(おおよそ)

    牛・馬の乗り物に携わる人        =  30人(おおよそ)

                      

                   合計    2030人(おおよそ)

 

このように考察してみると、一日 2000人以上の人々が行きかっていたと想定出来る。

 

宿坊の数からの想定では・・・

     牛に引かれて善光寺の 長野県善光寺宿坊の数は現在→39件位

     真言宗の寺院 和歌山県高野山の宿坊の数は現在 →52件位

現代は観光バスやツアー、外国人の参拝者が多いので

善光寺高野山等の参拝者数は比較するに及ばないが、

瀧山の細い山道をすれ違いながら途切れることなく歩く人の姿があったことが

想像される。

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賑わいの集落 三百坊があった・・・

 その賑わいのある仏教寺院はどこにあったのだろうか?・・・