瀧山物語

埋もれた歴史を発掘することは未来に起こるかもしれない危険を回避する事にならないだろうか?

瀧山物語(瀧山寺は蔵王で温泉治療をしていたのかも?)

山形市街・上山市街から眺めると高くそびえる瀧山がある。その背後にはさらに高くそびえる山々の蔵王山脈が連なっている。

その「蔵王」という名前は珍しい呼び名ではないだろうか?

 

奈良県吉野町に「総本山金剛蔵王大権現」があり現在も信仰を集めている。

その、蔵王大権現を祀ったのは「役行者(えんのぎょうじや)」だ。役行者飛鳥時代の呪術者として知られている。大自然そのものを霊山として過酷な山岳修行を行い霊力を得ていたと思われる。

また、

西暦110年頃に発見された温泉は「高湯温泉」と呼ばれており、刈田峰神社がまつられていた。古くはこの山々を「不忘山(わすれじのやま)」と呼んでいたが文武天皇(697~707年)蔵王権現をこの地に奉還し名前も「蔵王山」と改めた。

 

平安時代の初めころから蔵王山蔵王大権現が仏教文化と共に知られるようになった。

 

山形の地には「行基菩薩の開祖」と言われる寺が多くあるが、

その「行基菩薩」の思考が瀧山寺に受け継がれているのではないかと思われる。

では、行基とはどのような僧なのか・・・

 

飛鳥~奈良時代、仏教は国家機関や朝廷が、僧や寺院の行動を規定し、民衆に仏教の普及は禁止されていた。

 

その禁止を破って、行基が、貧民救済病人を治療するための宿を造ったり

ため池水路を作り川の氾濫をおさえたり、

橋を造り川で流される子供や人々を助けた。

そうした行動に賛同する若者が小集団を形成し、

その集団形成は近畿地方から広がって行き、

やがて各地に行基菩薩開祖の社会事業が発生し困窮者を支援する寺が出て、僧は、地域の救済者としての役目をはたしていたと思われる。

<余談>

空海も若かりし時はその集団に属しており、その組織により最澄と同じように留学することが出来き、そして、密教を持ち帰ってきた。

 

としてみると、仏教文化が花開いたと言い伝えれられる「瀧山」も、温泉を利用した「治療院」のような役割を持っていたのではないかと思われないだろうか?

 

蔵王温泉の西の方向に見える山が瀧山だ。現在、スキージャンプ台のすぐ後ろに見える近い山並みが瀧山なのだ。

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蔵王温泉から見た瀧山

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崖崩れの上に瀧山寺があったと思われる。そこから若い層たちは患者を温泉に連れて来ていたのではないだろうか?

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山道は若い医僧達が交代で患者を背負って歩いたのではないだろうか?

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らい病や皮膚病の患者達、腰痛や様々な病気を治療するために温泉を利用し、治療をしていたのではないだろうか?

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治療のための専用の温泉も、自分達で造っていたのではないだろうか?

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温泉治療に加え、山中から効能のある薬草を採ってきて治療をしていたのではないだろうか?

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薬師如来に祈り、病気が治るようにひたすらそればかりを生き甲斐にしていたのではないだろうか?




何故なら・・・瀧山の僧達は、らい病の治療方法を知っていたからではないかと

思われる。

それは・・・空海はらい病を患い亡くなってしまったが、その手当をしたと思われる僧が長期滞在したことがあったのかもしれない様子が感じられるからだ・・・。