瀧山物語

埋もれた歴史を発掘することは未来に起こるかもしれない危険を回避する事にならないだろうか?

瀧山物語(悲劇の寺院、瀧山寺はどこにあったのか?)

瀧山登山は中級の山で人気があり、登山に訪れる人々が四季折々あります。

登山コースは3ルートがあります。

 

大瀧コース  → 難所がありチェーンを伝って登る難所があります。

         眺めが良く上山市が遥か下方向に広がっていきます。 

                               今は登山道が荒れて通行止めになっています。

                  

 

乳母神コース → 雑木林を登って行くと中腹に開けた眺め良い場所に着きます。

         そこに「乳母神」石仏が建っており、「乳母神」は山腹の

         谷間を見守っています。そこからさらに登って行くと急な斜面

         が出てきて、ロープを伝って登って行きます。

 

前滝コース  → 10年位前に大きな台風が来たときに倒木や崖崩れがあり、

         眺め良く、月山・鳥海山がみえるコースでした。

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うがい場

そこは、水神様が祭られた清らかな小川が流れているところです。

きっと、「飲み水やうがいも出来る様な場所」

との意味でそう呼ばれているのかもしれません。

 

その、「うがい場」に着く前に、

三百坊の「石の鳥居」をくぐって登山はスタートします。↓(平安時代のもの?)

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しばらく行くと間もなく、西蔵王放牧場になっている広場に

西行法師が植えた「大山桜」が見えてきます。

残念ながら現在(令和3年)では枯れてしまいました。

10年前の登山の時に撮った写真を掲載します。

桜が咲いている時期の終わった5月でも、切ないほどの美しさがあります。

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2009年5月撮影の大山桜の樹木(西行法師が植えた)

瀧山を少しずつ登って行きます。

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瀧山の山中

歴史のすべては樹木の中におおわれて・・・

出来事のすべては静寂の中にうずもれて・・

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乳母神のコースには乳母神が山腹におります。

「乳母神」を参拝しさらに登って行くとまもなく急な斜面が多くなります。

ロープやチェーンをつたって転倒に注意しながら登って行きます。

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この急な斜面が道なのです。

瀧山寺はいったいどこにあったのか?

このような急な登り道が寺院の参拝道だったとは・・ありえない。

前滝コース、大瀧コース、乳母神コース 共に同じような急斜面の道がある。

寺院に続く参道とは・・・やはりありえない。

 

しかし、

3つのコースが合流するところは山頂のすぐ近くにある。

そこには「瀧山神社」という小さな社(やしろ)がある。

昔は神仏合拝とすれば、そこが、まぼろしの寺「瀧山寺」があった

所ではないかと想定はできる。

やはり、

「三百坊」300件もの宿坊を繁栄させた、信者の参拝道が一つに集まる所が

信者の目的地と考えても良いのではないのだろうか?

 

この急な山道を登って参拝したのだろうか?

 

この山の

山頂に祭られているのは「薬師如来」だ!

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山頂にある「薬師如来」に尺八の音色が広がった。

やはり、瀧山の山頂付近が、まぼろしの寺「瀧山寺」があったところではなかったのだろうか?

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瀧山寺があったと想定される場所は山頂付近?

寺院は、一つの大きな寺院と幾つかの小さな寺が集合しているのが一般的な事を考えれば、

山頂に「瀧山寺」それを囲むように小さな寺があり、

中腹には300件もの宿坊がある。

 

夕方からは、山のあちらこちらでろうそく等のあかりが灯り、

まさしく山全体に宝石がちりばめられたように輝き

神秘的で美しかったのではないだろうか?

 

昔からの言い伝えでは、

「山中のろうそくの明かりが見えた・・・・」との事。

 

里に住む人々はそんな神秘的で美しい山を神として拝んでいたのだろうか?

そのような瀧山に何が起こったのだろうか?

 

 

 

瀧山物語(三百坊・・・300件程の宿坊があり賑わっていた)

三百坊・・・300件程の宿坊があり賑わっていたと想定される

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今は静かな自然がすべてを覆ってしまっている。

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蔵王放牧場を作った時、土の中から多くの生活用品が出てきた。

その中に、古銭も多く出土したことから、郷土史研究が始まったといっても良い。
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三百坊とは宿坊が300件程あった・・という事になる。
その宿坊を営む人は少なく見積もっても900人

(1件で3人、調理・布団や配膳掃除。

    報酬や賃金は無いだろうから家族単位かもしれない)
泊り客は一組から数組。人数では1人~5人位。

昔は徒歩が殆どと思われるから必ず参拝は数日の宿泊が必要だったと想定される。

では、1日どれ程の人数がこの地にいたのだろうか?

    宿の世話人     約3名 X300件 = 900人(おおよそ)

    旅人【参拝者)  平均3名 X300件 = 900人(おおよそ)

    茶屋、土産物店の人 約2名 X100件 = 200人(おおよそ)

    牛・馬の乗り物に携わる人        =  30人(おおよそ)

                      

                   合計    2030人(おおよそ)

 

このように考察してみると、一日 2000人以上の人々が行きかっていたと想定出来る。

 

宿坊の数からの想定では・・・

     牛に引かれて善光寺の 長野県善光寺宿坊の数は現在→39件位

     真言宗の寺院 和歌山県高野山の宿坊の数は現在 →52件位

現代は観光バスやツアー、外国人の参拝者が多いので

善光寺高野山等の参拝者数は比較するに及ばないが、

瀧山の細い山道をすれ違いながら途切れることなく歩く人の姿があったことが

想像される。

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賑わいの集落 三百坊があった・・・

 その賑わいのある仏教寺院はどこにあったのだろうか?・・・    

瀧山物語(北条時頼は瀧山に来ていない?)

鎌倉時代北条時頼が忍び旅で瀧山を訪れ、乱れた僧侶を見て閉山にした」

言い伝えは本当なのか?

 

北条時頼は(1227年~1263年) 36歳の生涯

     「吾妻鏡」(政府公認の歴史書)から

  1243年16歳の頃  左近将監

  1244年       従五位上に昇叙

  1246年3月23日  幕府の執権となる。

       5月     反北条氏(名越光時)鎮圧

       7月     宮騒動藤原頼経を京都に強制送還)

  1247年       相模守に転任

              宝治合戦三浦泰村一族を滅ぼす)

  1249年       評定衆の下に引付衆を設置(訴訟や政治の迅速化

  1251年       正五位下に昇叙

  1252年       宗尊親王を擁立(親王将軍の始まり)

  1254年10月    女子誕生        

  1256年3月     連署(補佐役)北条重時天然痘に罹り出家

       9月     時頼 天然痘に罹るが回復 

      10月     時頼の娘も天然痘に罹り他界(享年3歳)

      11月     時頼 赤痢に罹る 病気を理由に執権辞職し出家  

  1257年2月     時宗元服

  1257年夏      干ばつ 

  1258年       長雨・低温・暴風雨

  1259年       正壽・正元の飢饉  

              時宗の弟、宗政の元服

  1261年       子息の序列をつくる(正妻の子・その他)

  1263年11月8日  病気悪化(これ以前からの重病を推測『吾鏡』)

       11月19日 危篤

       11月22日 死去  享年37歳

                          (参考:Wikipedia

 

      上記のように北条時頼の足跡を考察してみると、東北地方に尋ねてきた

「東国廻国」との説は成立が難しいと思われる。

まして出家の口実は病気であり、当時の飢饉における貧民救済や相続の整備に当たっていたと考えるのが妥当と思われる。尚『吾妻鏡』には廻国は記載されていないとの説がある。

 

瀧山・松島延福寺・室根山天台宗寺院を襲撃し消滅させたのは

 

誰が?

理由と目的は?

いつの事なのか?

 

瀧山物語(歴史の闇に消された悲劇)

山の周辺には、昔むかしに作られたと思う石の鳥居が、市街地に点在している。

寺院があったといわれるが、登り口が沢山あったようだ。

どんな寺院があったのか痕跡もない。

ただ、年寄達からの言い伝えがある。

    鎌倉時代北条時頼が忍びの旅で訪れたときに、

    みだれた僧侶たちを見て閉山になった・・・

    寺院は山のふもとに移転した・・・・・・と

残されたのは「三百坊」という言葉

そして、西行法師が植樹したといわれる「桜の木」

            (今は枯れて・・古木が・・・牧場に残っている)

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中腹の雪が見えるところが西蔵王牧場で、そこに、西行法師植えた桜木が
又、周辺に三百もの宿坊があり、様々な店もあり人々でにぎわっていたとの事。

牧場を整備するときに、出土品があり古銭も見つかっている。

 瀧山を山頂まで登りきると、そこには蔵王温泉が広がっている。

 

山頂に瀧山神社が今も残っている。

その地の周辺にこそ、悲劇の寺院集落があっただろうと

私は想定している。

なぜ、だれが、何の理由で・・・・

昔の事は 仕方がない事だとしても・・・汚名だけは取り除いてあげたい・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

瀧山物語(そのはじめに・・)

歴史は本当の事だけが史書に残っているわけではないようですね。

数年前から「歴史のとんでもない謎」に挑戦しています。

私が調べた事が間違っているかもしれません。

ぜひ、ご助言をお願いします。

 

しらべているのは、平安時代末期から鎌倉時代の事です。

医僧と患者(らい病患者含む)が一晩のうちに焼き打ちされ亡くなった

と思われるのです。

 

誰が実行犯かはわかりましたが、奥が深く・・・・

 

ただ、思うのは、殺害されて「悪僧達だった」と現代まで「汚名」で呼ばれているのは切ないと感じるのです。真実を少しずつ解明し「汚名」だけはとってあげれないかと調べています。

 

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